私の先祖の墓を建立改葬するにあたり先祖の足跡を顧みているのだが後の満州事変につながる社会背景
張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)は、1928年(昭和3年)6月4日に起こされた、関東軍による奉天軍閥の長張作霖の暗殺事件。別名「奉天事件」。中国では、事件現場の地名をとって、皇姑屯事件ともいう。当時は「満州某重大事件」と呼ばれ、事件の真相は隠されていた。
張作霖の爆死によって、満州の形勢は一変した。
昭和二年の冬、私は撫順の独立守備隊にいた同期の角田市朗を訪ねたことがある。彼は私と同県出身でユーモアがあり、かつ機智に富んだ男であった(昭和四十五年病死)。
以下は角田の手記の要約である。手記中T中尉とあるのは○○丈夫中尉(35期)(後の大佐)のことである。彼は陸士予科時代は有名な弥次ごろで、通称「馬車馬」といって下級生から畏れられていた。
昭和三年五月末のある夕刻、突然伝令がきて「至急私服で軍司令部河本高級参謀のもとに出頭せよ」と伝えた。奉天でT中尉と落ち合って司令部へ行くと、同参謀から、「張作霖は国民革命軍の圧迫により、北京から満州へ引き揚げる兆がある。T中尉、角田中尉は即刻新民府に潜入し、張軍の軍事輸送を偵察、特に張作霖の行動を諜知して速報せよ」という任務をさずけられた。
新民府に着いた私達は副領事に頼んで、領事館の警察官になりすまし、二人交替で駅構内の張り込みをすることになった。
六月の二日になると、人員輸送がハタとなくなり、いよいよ引揚げが近いと感じとられた。そこで「数日来の輸送状態から見て、張作霖の北京出発は明三日頃と判断せらる」と奉天に急報した。折り返し奉天から、「北京情報によれば、張は明三日北京出発、奉天に帰還する」という通報があり、末尾に「新民府の情勢判断は見事である。健闘を祈る」と付け加えてあった。
三日、空気は次第に高潮する。午後十一時過ぎ頃、急に二等単一輌が猛スピードで奉天に向かって通過する。これは大いに判断に迷ったが、かねてから色々手をつくして近づいていた駅の助役から「あの列車で常蔭槐局長が先行して帰奉したのである」ということを知った。この頃、辛うじて山海関と連絡がついて、張の特別列車が同駅を通過したことを知った。
午前三時過ぎ、着剣した三百人ほどの兵隊が現われ、警戒配置についた。いよいよ特別列車通過にちがいないと思っていると、やがて新民県長ら県の人十数名がホームに入ってくる。警察署長が、私たちの方を指しながら「あれは何者か」とただしているらしい。とっさに二人は機先を制してつかつかと県長のもとに歩みよって一礼し、
「私どもは日本の領事館から参った着です。お出迎えの末席にならばせていただきます」
と捨身の戦法に出る。県長は一瞬とまどった様子であったが、愛想よく私達を列に加えてくれた。
やがて、特別列事は暁闇をついて現われ、停車した。列車の編成は一等車七両を中央部にして鉄甲車、普通事を合せ三十余輌、さすが大元帥の威容を保った堂々の奉天帰還である。
各車の窓はブラインドを降ろしている。一等車中央に金文字で「津浦」と書かれた車輌が張作霖の乗用車のはずである。その時、その一等車のデッキに一中将が現われて出迎えの人々に挨拶している。これで張作霖の乗車していることと、その位置を確認することが出来た。全く天佑である。
まもなく列車は出発した。急報は奉天に飛んだ。それから一時間もたった頃、顔色を変えた助役が「特別列車は皇姑屯で爆破され、大元帥は重態のもよう」と私に囁いた。
祖父は東條首相にも物が言えた軍人であった。落下傘部隊の天覧式の事件は部下を守る口上は有名である。
張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)は、1928年(昭和3年)6月4日に起こされた、関東軍による奉天軍閥の長張作霖の暗殺事件。別名「奉天事件」。中国では、事件現場の地名をとって、皇姑屯事件ともいう。当時は「満州某重大事件」と呼ばれ、事件の真相は隠されていた。
張作霖の爆死によって、満州の形勢は一変した。
昭和二年の冬、私は撫順の独立守備隊にいた同期の角田市朗を訪ねたことがある。彼は私と同県出身でユーモアがあり、かつ機智に富んだ男であった(昭和四十五年病死)。
以下は角田の手記の要約である。手記中T中尉とあるのは○○丈夫中尉(35期)(後の大佐)のことである。彼は陸士予科時代は有名な弥次ごろで、通称「馬車馬」といって下級生から畏れられていた。
昭和三年五月末のある夕刻、突然伝令がきて「至急私服で軍司令部河本高級参謀のもとに出頭せよ」と伝えた。奉天でT中尉と落ち合って司令部へ行くと、同参謀から、「張作霖は国民革命軍の圧迫により、北京から満州へ引き揚げる兆がある。T中尉、角田中尉は即刻新民府に潜入し、張軍の軍事輸送を偵察、特に張作霖の行動を諜知して速報せよ」という任務をさずけられた。
新民府に着いた私達は副領事に頼んで、領事館の警察官になりすまし、二人交替で駅構内の張り込みをすることになった。
六月の二日になると、人員輸送がハタとなくなり、いよいよ引揚げが近いと感じとられた。そこで「数日来の輸送状態から見て、張作霖の北京出発は明三日頃と判断せらる」と奉天に急報した。折り返し奉天から、「北京情報によれば、張は明三日北京出発、奉天に帰還する」という通報があり、末尾に「新民府の情勢判断は見事である。健闘を祈る」と付け加えてあった。
三日、空気は次第に高潮する。午後十一時過ぎ頃、急に二等単一輌が猛スピードで奉天に向かって通過する。これは大いに判断に迷ったが、かねてから色々手をつくして近づいていた駅の助役から「あの列車で常蔭槐局長が先行して帰奉したのである」ということを知った。この頃、辛うじて山海関と連絡がついて、張の特別列車が同駅を通過したことを知った。
午前三時過ぎ、着剣した三百人ほどの兵隊が現われ、警戒配置についた。いよいよ特別列車通過にちがいないと思っていると、やがて新民県長ら県の人十数名がホームに入ってくる。警察署長が、私たちの方を指しながら「あれは何者か」とただしているらしい。とっさに二人は機先を制してつかつかと県長のもとに歩みよって一礼し、
「私どもは日本の領事館から参った着です。お出迎えの末席にならばせていただきます」
と捨身の戦法に出る。県長は一瞬とまどった様子であったが、愛想よく私達を列に加えてくれた。
やがて、特別列事は暁闇をついて現われ、停車した。列車の編成は一等車七両を中央部にして鉄甲車、普通事を合せ三十余輌、さすが大元帥の威容を保った堂々の奉天帰還である。
各車の窓はブラインドを降ろしている。一等車中央に金文字で「津浦」と書かれた車輌が張作霖の乗用車のはずである。その時、その一等車のデッキに一中将が現われて出迎えの人々に挨拶している。これで張作霖の乗車していることと、その位置を確認することが出来た。全く天佑である。
まもなく列車は出発した。急報は奉天に飛んだ。それから一時間もたった頃、顔色を変えた助役が「特別列車は皇姑屯で爆破され、大元帥は重態のもよう」と私に囁いた。
祖父は東條首相にも物が言えた軍人であった。落下傘部隊の天覧式の事件は部下を守る口上は有名である。