
道定から11代目の佐渡守俊勝(としかつ)は刈谷城主水野信元(のぶもと)と結ぶため、妻と離縁して、天文16年(1547年)信元の妹である於大の方(おだいのかた)を妻に迎えた。於大は、岡崎城主松平広忠(ひろただ)に嫁いで竹千代(のちの徳川家康)を生んでいたが、天文13年(1544年)兄の信元が今川方から織田方に寝返ったため、大国今川氏の嫌疑を恐れた広忠に離縁され刈谷城に戻されていた。その後、俊勝との間に、康元、康俊、定勝などをもうける一方、熱田(織田氏)や駿府(今川氏)などで人質生活を送る竹千代には音信を絶やさず、衣類などを送り続けた。永禄3年(1560年)駿河、遠江、三河と勢力を拡大した駿府の今川義元(よしもと)は、上洛に向けて2万5千の大軍で尾張に押し寄せる。今川方の先発隊として出陣した松平元康(竹千代)は、岡崎勢を率いて大高城への兵糧入れを成功させた。この時、19歳の元康は織田方の阿久比城に母を訪ね、16年ぶりの再会を果たす。しかし、桶狭間の戦いで今川氏が敗れると、元康の守る大高城は織田軍に包囲される。包囲を突破した松平軍は知多半島を南下して、於大の助けで阿久比城を経由して、成岩浜より舟で三河大浜に渡り、岡崎城に戻ることができた。
永禄5年(1562年)俊勝は、阿久比城を前妻の子信俊(のぶとし)に譲り、於大とその子達を伴い、元康の岡崎城代として岡崎に移る。阿久比城主となった信俊は、織田信長の武将である佐久間信盛(のぶもり)に従い石山本願寺攻めに出兵した。しかし、天正5年(1577年)信盛の讒言により、門徒衆と内通しているという疑いをかけられ、大阪四天王寺にて切腹させられてしまう。阿久比城では善後策を評議する間もなく、佐久間氏の手勢に攻められ、落城炎上する。信俊の子である小金丸(7歳)と吉安丸(5歳)、城代家老坂部藤十郎以下、ことごとく討死した。
於大を生母とする久松康元、勝俊、定勝は、家康より松平姓を許され久松松平氏を名乗る。そして、下総関宿(康元)、遠江掛川(勝俊)、伊勢桑名(定勝)に封じられ、江戸時代は親藩として栄えた。江戸時代、桑名城主松平定綱(定勝の三男)が、尾張藩主徳川義直に請い、阿久比の古城跡に松、杉、檜をそれぞれ1,000本植えている。(2002.12.30)