
人間は死ぬことを考えるとき、ふと誇大にその自分のその亡骸の象徴を扱ってほしいと懇願するものである。然しながら、本当に人生の意味を知り全うした人はどうであろう。歌を詠んだその人は「岡倉天心」。誰あろう中村マスターの心の師である。
多くの権力者は古代から大きな巨大な墓を作らせてきた。無功徳の精神で芸術にまい進したその人は、墓石も立てずそっと埋めて木でもそこに植えてよと云った。
岡倉天心が大きな墓は要らない。五浦海岸のどこかひっそりしたところの落ち葉に深く埋めて枯れ枝でもそこにさしてくれればいいという辞世の句なのである。
男の生き方として「辞世の句」その生き様を全て露にしているではないか。
昨日は高見のkinderbook cafeマスター中村宏一氏のことをいつもながら回想し相槌を打つ。
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そのことを敢えて触れると中村マスターも珍しく
「それいいですね。僕もまねしよー!」
と茶目っ気たっぷりに笑っていたことが思い出される。
中村マスターのことであるからして
当然ながら熟知していたわけで
その愛嬌アル返答の奥底には頑なな決意が
あるわけで・・僕にもそれはわかっている。いわば互いに「黙認」
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日本美術・民藝に対して厳しくも愛情をもって庇護してきた男がいた。
また我々庶民の心の空虚もちょっとしたウィットで埋めてくれた男がいた。
改めて稀有な博学・知識に乾杯・感涙である。
今月、kinderbook cafeのOBである「笑坐版店」の自宅店2回目も開催される。
今からアフラックとパタと三人で赴くことを考えるだけで笑ってしまうのだ。
ライフデコでは「ヴォルフガング・ザイエール展」も開催されている。
今日は氏の演奏も行われるとのこと。
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「やはり、アルス・ビタ・エスタ(芸術は人生なり)
というより、ビタ・アルス・エスタ(人生は芸術なり)
ではないでしょうか?
"楽しいではありませんか"
"やろうではありませんか"
医者の外聞知らず(私の知人ですからご容赦を)
は虚飾家にまかせて、ソイ先生は諸芸に究する
医家であられることを類望します。」
いやはや中村マスターの事を折に触れるにつけ
いやはや「長舌」になってしまう。
突然のお別れから早3年。
出会いは「刹那」であり
また「永遠」であることを
ひしひしと感じる。
中村マスターは頷いてくれるだろう。