
当の僕は気にしないわけでないが、翌日になるところっと忘れる。
通知表に「あひるや電信棒が並んでいても」悔しいのだが忘れる。
母は、この通知表を念のため仏壇に置く。
なぜそうしなくはいけないかは僕はわからない。
我が家の習慣といえばそれまでだ。
翌日以降で一番いやなのが我が家に来る人、来る人にその「通知表」
を見せることだ。顔から火がでるほど恥ずかしいこともある。
特に近所のきくちゃんが「オール5」に近いのでその子に見られるのは
とても恥ずかしいのだ。でもまた忘れる。
遊ぶことは忘れない。大好きなのだ。
帰宅してランドセルを玄関の扉が閉まるか開くかというタイミングで
「ぽーん」とホカル。中からお母さんの声、「ソイなの?」
これに掴まると今日の遊びは中断を余儀なくされる。
だから扉の開け閉めも瞬時なのだ。
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そんな僕が小学校5年生になった折、担任の発表でぎょっとした。
なんと1年生と3年生で担任となった「赤井」先生だったのだ。
3度目。二度あることは何とやらだが、僕としては「すべてをみすかされている」
担任だったので複雑な気持ちもある。実は赤井先生は最初の担任一年生の時には僕の家に数ヶ月住んでいたのである。よくドラマであるような「あれ」なのだ。
ゆえに「家族」のような「家族」でもない変な存在だったわけだ。
でも今まで通知表で恩義はない。当たり前だ。しっかり一年生のときも3年生の時も
「あひるちゃんと電信棒」が並ぶ様子に変わりなかったのである。
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赤井先生から
「今年から5年生、ソイ君に期待しているね」
と言われた。月並みな言葉のようにも感じたし、特別の言葉にもおもえた。
1年生から4年生では授業を邪魔したり、忘れ物では教室の天井までシールが貼られていた僕であるが、何となくそんな赤井先生の期待?の視線もあって授業だけは真面目に聞いて発言し始めた。中途、初めて、生まれて初めて「これって贔屓」って言えるほどエゴな愛情を感じたこともあるが逆にそれが背中を押して授業だけでなく生まれて初めてこれが「贔屓って」やつかと嬉しかったりもした。赤井先生がそれまでも知っている赤井先生とは違って見えた。贔屓しているからではなく、何かもっと「崇高」な香りがしたからだ。
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今まで30点とか取っても何とも思わなかった僕が「100点」じゃないと嫌になった。予習までするようになった。こうなってくると「知らないこと」が覘いてみたくなって母フロッグ氏が買い込んでいた大百科事典や広辞苑、全集なども見始めた。時にはランドセルの中にそれを入れていったこともアル。
一学期は人生で初めて「あっという間の」速さ。
気づいたら一学期期末、赤井先生は教壇で皆に順番で通知表を渡していた。
今までとは違う、明らかに期待する高揚する気持ちで前に出る。
「ソイ君、本当にほんとうにがんばったね」
それだけの言葉であったが赤井先生の眼は既に赤かった。潤んでいた。
僕も一気に潤んでしまった。泣きはしなかったがこれも初めて感じた感情である。
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おそるおそる見てみると主要4科目は全て5、他の科目も全て4であった。
初めて見る数字?そんなわけ無いか・・。巷では良く見ても「5」という数字がこんな神々しく見えるとは不思議だった。
帰宅途中、多分、よそ様の目には僕が宙に飛びながら歩いていたことを目撃したはずだ。そして玄関は、そーとやさしく開けた。
「ただいま〜」
母はいつもと変わらなかった。いつもように通知表を見る。
ニヤリと笑っていた気がする。
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赤井先生のそれからの後押しも凄かった。学級委員や生徒会立候補や色々な委員会に推薦して色々な場で
「がんばってね」と囁いた。
だから突然二学期途中で、
「みんなに報告があります。実は子どもが出来て来週からの授業を何々先生に代わってもらうことになりました。」と報告を受けたときはショック以上の衝撃だった。
後ろ盾を突然なくしたような・・・。
そしてまた囁いたのである。
「ソイ君、がんばっててね、期待してるよ」と。
二学期とある日、僕が風邪で休んだ翌日に学校に行くと教室がざわざわしていた。
「おい、昨日、なんで学校に来なかったの?なんかお前凄い賞もらったみたいだぞ」
「えっつ」補佐の担任がわざわざ改めて其の賞の栄誉を説明して盾を渡された。
「中日ブルーバード賞」
賞をもらったことも無い僕が有頂天になったことは言うまでも無い。
が、そこに赤井先生が居ないのはとても寂しかった。
赤井先生のお膳立てであることは容易に知れた。
それだけに
そこに赤井先生が居ないのはとても寂しかった。