妻昭子の病状は、つるべ落としのように悪化していきました。12月に入ると、ベッドから起き上がることもできなくなりました。
この年の春、私は定年を迎え、名誉総長に退いていました。管理業務から解放されたので、出来る限り病室に行き、背中の床ずれ予防の薬を塗ったり、食事の世話をしたりするのが日課になりました。妻と過ごした病室での日々は、私の人生で最も濃密に妻と対した時間でした。
年の瀬が迫るにつれ、街は華やかさを増します。夜、病院から独り帰宅するたび、世の中の人がみんな幸福そうに見え、正直とてもつらかったですね。
病院は12月28日から正月休みに入ります。妻は「どうしても家に帰りたい」と懇願しました。病院で死にたくない、わが家でみとられたいという思いです。
自宅に国内外の知人を招いて接待するのが垣添夫妻の楽しみだった(2003年) もちろん帰れる状態ではありません。私は妻の最後の望みをかなえるため、「点滴から排せつまですべて私がやる」と担当医を説得しました。点滴バッグの中に利尿剤とかビタミン剤をセットする方法、自動注入ポンプの扱いを看護師に習い、28日朝、在宅用の医療器具や医薬品を山のように積み込んだ車で、一緒に帰宅できました。
久しぶりの家です。昭子はこたつに足をおろして天井のしみを眺めたり、庭を見たり……。日常の風景に接することで、生気がよみがえってくるようでした。
夕飯は福岡から取り寄せた妻好物のアラ鍋を用意しました。抗がん剤で口と食道がひどくただれているのに、「こうでなくちゃ」と何度もつぶやきながら、おいしそうに食べることができたのです。
「家に連れ帰って本当によかった」と心から思い、かけがえのない晩さんを楽しむことができました。
しかし、この時がいつも通りの会話ができた最後でした。翌日からは意識がもうろうとしてきて、30日には、無呼吸と過呼吸を繰り返す「チェーンストークス呼吸」が始まりました。
《チェーンストークス呼吸は無呼吸状態が数秒から数十秒続いた後、血中にたまった炭酸ガスを排出するため呼吸が始まり、次第に大きくなって過呼吸状態を繰り返す。呼吸中枢の機能が落ちた症状として死期が迫った時しばし起こる》
大みそかの午後になると、意識がなくなり、さらに呼吸が荒くなってきました。私はがんの専門医であるのに、ただ脇で見守るだけでした。
その時です。突然、身を起こした昭子は私に向かって目を見開き、私の手をぎゅっと握り締めました。
「ありがとう」――。
声にならない声が私にははっきり聞こえ、次の瞬間、妻の手の力がガクッと抜け落ちました。
午後6時15分でした。
30分後に担当の先生が来られ死亡診断書を書いていただきましたが、2人の意思が通じたと確信できたあの一瞬が、私の中の昭子の死亡時刻と思っています。
享年78歳でした。
この年の春、私は定年を迎え、名誉総長に退いていました。管理業務から解放されたので、出来る限り病室に行き、背中の床ずれ予防の薬を塗ったり、食事の世話をしたりするのが日課になりました。妻と過ごした病室での日々は、私の人生で最も濃密に妻と対した時間でした。
年の瀬が迫るにつれ、街は華やかさを増します。夜、病院から独り帰宅するたび、世の中の人がみんな幸福そうに見え、正直とてもつらかったですね。
病院は12月28日から正月休みに入ります。妻は「どうしても家に帰りたい」と懇願しました。病院で死にたくない、わが家でみとられたいという思いです。
自宅に国内外の知人を招いて接待するのが垣添夫妻の楽しみだった(2003年) もちろん帰れる状態ではありません。私は妻の最後の望みをかなえるため、「点滴から排せつまですべて私がやる」と担当医を説得しました。点滴バッグの中に利尿剤とかビタミン剤をセットする方法、自動注入ポンプの扱いを看護師に習い、28日朝、在宅用の医療器具や医薬品を山のように積み込んだ車で、一緒に帰宅できました。
久しぶりの家です。昭子はこたつに足をおろして天井のしみを眺めたり、庭を見たり……。日常の風景に接することで、生気がよみがえってくるようでした。
夕飯は福岡から取り寄せた妻好物のアラ鍋を用意しました。抗がん剤で口と食道がひどくただれているのに、「こうでなくちゃ」と何度もつぶやきながら、おいしそうに食べることができたのです。
「家に連れ帰って本当によかった」と心から思い、かけがえのない晩さんを楽しむことができました。
しかし、この時がいつも通りの会話ができた最後でした。翌日からは意識がもうろうとしてきて、30日には、無呼吸と過呼吸を繰り返す「チェーンストークス呼吸」が始まりました。
《チェーンストークス呼吸は無呼吸状態が数秒から数十秒続いた後、血中にたまった炭酸ガスを排出するため呼吸が始まり、次第に大きくなって過呼吸状態を繰り返す。呼吸中枢の機能が落ちた症状として死期が迫った時しばし起こる》
大みそかの午後になると、意識がなくなり、さらに呼吸が荒くなってきました。私はがんの専門医であるのに、ただ脇で見守るだけでした。
その時です。突然、身を起こした昭子は私に向かって目を見開き、私の手をぎゅっと握り締めました。
「ありがとう」――。
声にならない声が私にははっきり聞こえ、次の瞬間、妻の手の力がガクッと抜け落ちました。
午後6時15分でした。
30分後に担当の先生が来られ死亡診断書を書いていただきましたが、2人の意思が通じたと確信できたあの一瞬が、私の中の昭子の死亡時刻と思っています。
享年78歳でした。