東日本大震災では多くの人が家を失ったが、そんな時代だからこそ経営コンサルタントの大前研一氏は、改めて「家は買ってはいけない」と警鐘を鳴らす。
「東日本大震災では約9万戸(工場や店舗も含む)が全壊し、大勢の人が家を失った。なかでも保険の適用がない人の被害は深刻で、住宅ローンだけ残った人も多い。また、地震や津波のリスクが改めて浮き彫りになったことで、住宅の資産価値が大きく目減りした地域も少なくない。たとえば、一部で地盤が液状化した新浦安では、新築高層マンションの価格が3割も下落した。25年も前から私は「住宅を買ってはいけない」と警告してきたが、残念なことに今回それが最悪かつ最大のスケールで証明されることになってしまった。そもそも氏が日本人の“持ち家信仰”に警鐘を鳴らしてきたのは、日本ほど「買った瞬間に住宅の価格が下がる」国は世界にないからだ。買った時が一番高く、その後はどんどん値下がりして、一戸建ては10年後には銀行の査定だと土地の値段だけになってしまう。欧米は日本と逆に買った時が一番安く、徐々に価値が上がって将来の資産になる。しかも、たいがい値上がり率は銀行預金や株式よりも高くなる。またマンションのターミナルバリュー(最終価値、残存価値)がマイナスに近づくケースが続出している。日本では建物の法定耐用年数は重量鉄骨造りが34年、鉄筋コンクリート造りが47年だが、そのルールがはっきりしていないため、住民の一部が反対して建て替えができなかったり、積立金だけでは大規模修繕もままならないといった理由でターミナルバリューがマイナスに近づいていく。」ところが経営コンサルタントの氏は、欧米では「築50年」の物件が高値で取引されると説明し、日本との違いを指摘する。
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大前氏の理論はある程度間違えないものである。制約もある。「経済的」にみればという条件付きだ。しかしそんなことはある程度「我々は承知」なのではないだろうか。もともと日本人は戦後のどん底からはい上がって好景気に湧き人間の一生のなかで「自分の家をもつ」というhighlightが必要不可欠な要素であると認識(錯覚)している。当然、「家賃を払うなら、買え」というものも、とある時代のアナリストたちの神話とされて信じられてきた。現在のアナリストは日本で家を持つことがかなり「リスク」となることを改めて再検証して警鐘している。
ただし、世の中には家を所有することで「精神的満足」を得られまた「室内空間」を楽しんで生活する付加価値があるのもまた事実、お金の損得だけでは割り切れないことも事実として周知なのである。
家やマンションを所有するという行為自体は哲学的には「間借り」に過ぎず法律的に「所有」が認められているだけで実際は「時」と「自己生命の限界」のなかで「非恒久的」である落款を同時に押されたのも同然なのだ。故に、僕からみれば買うのも借りるのもほんのひとときの「仮契約書」みたいなものでどちらも一緒で違いもないような気もする。
「家をもてばいいんじゃないでしょうか」
喪失を恐れては持つことはできない。
損得を考えては持つことはできない。
これは家に限らず、物魂全般、人との付き合い万象に言えることなのでは・・。
「東日本大震災では約9万戸(工場や店舗も含む)が全壊し、大勢の人が家を失った。なかでも保険の適用がない人の被害は深刻で、住宅ローンだけ残った人も多い。また、地震や津波のリスクが改めて浮き彫りになったことで、住宅の資産価値が大きく目減りした地域も少なくない。たとえば、一部で地盤が液状化した新浦安では、新築高層マンションの価格が3割も下落した。25年も前から私は「住宅を買ってはいけない」と警告してきたが、残念なことに今回それが最悪かつ最大のスケールで証明されることになってしまった。そもそも氏が日本人の“持ち家信仰”に警鐘を鳴らしてきたのは、日本ほど「買った瞬間に住宅の価格が下がる」国は世界にないからだ。買った時が一番高く、その後はどんどん値下がりして、一戸建ては10年後には銀行の査定だと土地の値段だけになってしまう。欧米は日本と逆に買った時が一番安く、徐々に価値が上がって将来の資産になる。しかも、たいがい値上がり率は銀行預金や株式よりも高くなる。またマンションのターミナルバリュー(最終価値、残存価値)がマイナスに近づくケースが続出している。日本では建物の法定耐用年数は重量鉄骨造りが34年、鉄筋コンクリート造りが47年だが、そのルールがはっきりしていないため、住民の一部が反対して建て替えができなかったり、積立金だけでは大規模修繕もままならないといった理由でターミナルバリューがマイナスに近づいていく。」ところが経営コンサルタントの氏は、欧米では「築50年」の物件が高値で取引されると説明し、日本との違いを指摘する。
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大前氏の理論はある程度間違えないものである。制約もある。「経済的」にみればという条件付きだ。しかしそんなことはある程度「我々は承知」なのではないだろうか。もともと日本人は戦後のどん底からはい上がって好景気に湧き人間の一生のなかで「自分の家をもつ」というhighlightが必要不可欠な要素であると認識(錯覚)している。当然、「家賃を払うなら、買え」というものも、とある時代のアナリストたちの神話とされて信じられてきた。現在のアナリストは日本で家を持つことがかなり「リスク」となることを改めて再検証して警鐘している。
ただし、世の中には家を所有することで「精神的満足」を得られまた「室内空間」を楽しんで生活する付加価値があるのもまた事実、お金の損得だけでは割り切れないことも事実として周知なのである。
家やマンションを所有するという行為自体は哲学的には「間借り」に過ぎず法律的に「所有」が認められているだけで実際は「時」と「自己生命の限界」のなかで「非恒久的」である落款を同時に押されたのも同然なのだ。故に、僕からみれば買うのも借りるのもほんのひとときの「仮契約書」みたいなものでどちらも一緒で違いもないような気もする。
「家をもてばいいんじゃないでしょうか」
喪失を恐れては持つことはできない。
損得を考えては持つことはできない。
これは家に限らず、物魂全般、人との付き合い万象に言えることなのでは・・。