8ad7cb53.jpg貴方は神を信じますか?
よく路上などで聞かれる言葉、最近はないか。
昔はよく聞かれたな。
神を皆さんも信じてない訳ではないだろう。
神社に行って「手を合わす」あれも神
いただきますと言って「手を合わす」
自然と日本人には神さまと日常で対話しているかのように
なっているのかもしれない。
ただ大真面目に
「神を信じますか?」と聞かれると
「ふーん」と一回考えてしまう人も多い。
「一体神とは何なのか?」
この命題に最も取り組んできたのが西洋人である。

17世紀末から18世紀初頭にかけて、西洋では理神論の影響下において伝統的な超越神の棚上げという現象が生じる。それまでは、人間が完成の領域に至るためには、最終的には神の恩寵が必要であった。人間という存在の最終目標は、まさに神を愛することにより神と等しいものに上昇することにあり、神の存在は人間の完成にとって不可欠となっていったのである。
理神論の登場によって、人間の理性の及ばない神的世界の存在が棚上げされてしまうと、人間の到達目標は人間的な価値によってのみ計られ始める。逆にいえば、神性に人間的要素が読み込まれることになる、此処でプラトン以来の西欧倫理学の伝統が新しい宗教の内容として復活してくる。

ソクラテスの挙げた四元徳、すなわち「知恵、勇気、節制、正義」を調和的に成熟させた人間が、18世紀の理神論の影響下における人間の理想像となるのである。
そこに更にキリストの三元徳「信仰、愛、希望」が加わり
またモーツァルトの魔笛において
「忍耐、沈黙、勤勉、友愛、善行、勇気」が徳性として挙げられ
文豪トルストイにおいては「戦争と平和」で
「謙譲、服従、温厚、愛情、剛気、寛大、死への愛慕」の徳目を挙げ
フランクリンの有名な「自叙伝」では
「節制、沈黙、規律、決断、節約、勤勉、誠実、正義、中庸、清潔、平静、純潔、謙譲」の13徳を挙げている。

徳目の如何にかかわらず、徳性の滋養による人間の完成という目標は、啓示性否定されたキリスト教に代わって、あるいはその代用として18世紀の人々が追求したものなのである。
ある意味、神的世界を信じている方が「都合がよい」のであるがそれを理神論によって「神性に人間性要素を組み入れると」人は皆「道徳」を追求しだすのである。
これはある意味「悪いことではない」
私なりの見解でいえば
「神」はそれぞれの心のなかに、その有り様によって存在するものである。
しかしながら「近づこう」といった属性のものではなく、決して近寄れないものなのである(道徳を磨き神に近づこうとしたものこそ「神」との遥かなる距離を知ることになる)それでも徳性を磨き、理想人に近づくことは自分の有り様を変えるので当然ながら心にある「神様」の見えようは変わるかもしれない。
西洋人は一時、自分を見失って「徳性」に走り、自己を発見した後、また「神」を信じ「徳性」を少し忘却している、まさしく我々も同じ有り様かもしれない。
「神様」に一度聞きたいな。
「あなた様は人間を信じますか」
「未だ人間を信じてくれていますか」と