嫌なこと誰だってありますよ。
僕だってアフラックだってパタちゃんだって・・。
そんな時はいつも自分で決めています。
15年以上前に悩んだ挙句、勝手に作った言葉ですが
何かにつけ支えてもらっている気がします。
自分で作って自分で支えるって変な気がしますが・・。
自分の言葉だから等身大で支えやすいってのもありますよね。

「  生生是のみ修行なり

    すなわち

 会う人須らく我が師なり

    すなわち

  我の前にあるもの万象須らく我が教科書なり

  ゆえに我は生きる、ゆえに我はただ歩くのみ」

        (by soy 1996.4 自作自演乙)

この言葉を作った意味は論じるのもおこがましく、恥ずかしいのですが。


「この世に道場など求める必要もないのです

  この世に修行の場など全く求める必要もないではありませんか

なぜなら我々(貴方)は生きていることだけで修行の場とされているのだから。
 この瞬間、瞬間さえも修行なのだから。
あえて修行の場を求めること自体が矛盾なのではありませんか。

即ち、これから会う人会う人は皆、あなたの人生劇場に必然に用意された師匠ばかり
(素敵な人、嫌な人(みえる人も含めて)もすべてあなたを育てる、成長させるために出会うべくして出会う)

即ち、これからある事、見るもの、手にするもの、良いこと、悪いこと含め森羅万象総てはあなたを成長させる教科書ではないでしょうか。

ゆえにそれ以下もそれ以上も修行は必要がないのではないでしょうか。
ただひたすらに生きていくだけでいいんです。
難しく考えず、ただ歩くだけでいいんです。