いつものように清明山の交差点を左に曲がり、愛工大高校校舎を過ぎて暫くするとボクの定位置である駐車場が見えてくる。駐車場と言っても路肩にとめるだけだが此処が何といっても重宝するのである。この辺は何しろ駐車場が少ない割に店が多い。これはあまり声高には言えない話だが(不思議な感じだが)意外にいい店ほど駐車場を持たないものだ。駐車場を何台も借りている佳店に失礼だし、路上迷惑駐車奨励と勘違いされかねない。とかく世間は不公平であるものだ。全く駐車場契約せずにお店の経営が成り立つこともあれば、何十台も借りていて経営が成り立つこともある。そんなツマラナイことを考えつつ車のドアをばたんと閉めてとぼとぼ歩いて大きなガラスのドアを開けて店に入る。masterの声がいつもより明るい。何かが違う。見渡せば壁一面に絵が飾ってある。
もう一度masterの顔を見ると笑ったような困ったような変な表情で「そうなんですよ。」と
こっちが何も言ってないのに「そうなんですよ」とは変なやり取りだがmasterにはあ・うんの会話があるので「そうなんですよ」となるわけである。
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聞けば東京の大学を出た版画家の作品だそうだ。独特な風合いを持つ作品である。
ぼくとしては絵もさることながら、此処がなぜにギャルリーと化したが気になっている。それとなく聞くと
「もともとこの店はそうするつもりだったんです」と。
(うむ〜)
「でも昨日のお客さんからは、この店は絵なんて無いほうがいい!なんて言われちゃいましたけど・・へぇっへ」
(実はボクも最初見た時の印象はそのものずばり「同感」であったわけだが)
このお店にはアイデンディティーの核となる本棚が存在する。これを中心に空間balanceが成立してて、コンクリートの床とイエロークリームの壁のsimpleなcontrastが(妙に落ち着く」シンプリシティを構成している印象だ。
どんな名画や彫刻だろうがそのbalanceを壊さず、高めることは出来ない既に完成されている空間なのである。
まあ元来、ぼくとしてはこのカフェのあり方が現代の茶室だなと感じていたぐらいであるからして床の間変わりに絵の一枚ぐらい飾っても良いわけであるが、その一枚ですら不要であるし、すでにその一枚は「本棚自体」なのではとも考えられてしまうのである。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、 画、陶が生まれて、それを飾るギャルリーができる。 ここに画家、作陶家という使命が 降り、ここに詩・哲学的思想を持つ空間ができる。肩の力を抜いてやれば、見に来る、手に取る客も、また力が抜ける。そのとき、それが本当の「美」のあり方なんだと気づけばこれ以上のことはないわけでmasterはそれをやりたいんだな、やりたかったんだなと。
大きなギャルリー然としたカフェをやれば、見せる方も見る方も力が抜けない。そこにある日常の延長線上のように自然に「美」と関わって欲しい提案のために、ある日突然「ギャルリー」と化しているのなら非常にmasterらしいなとも。
翌週にまた店を覗いた。もう店には絵もなければ作品もない。masterが笑って
「絵がなくなってさみしくなったと何人かの客から文句言われちゃいました。」と
もう一度masterの顔を見ると笑ったような困ったような変な表情で「そうなんですよ。」と
こっちが何も言ってないのに「そうなんですよ」とは変なやり取りだがmasterにはあ・うんの会話があるので「そうなんですよ」となるわけである。
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聞けば東京の大学を出た版画家の作品だそうだ。独特な風合いを持つ作品である。
ぼくとしては絵もさることながら、此処がなぜにギャルリーと化したが気になっている。それとなく聞くと
「もともとこの店はそうするつもりだったんです」と。
(うむ〜)
「でも昨日のお客さんからは、この店は絵なんて無いほうがいい!なんて言われちゃいましたけど・・へぇっへ」
(実はボクも最初見た時の印象はそのものずばり「同感」であったわけだが)
このお店にはアイデンディティーの核となる本棚が存在する。これを中心に空間balanceが成立してて、コンクリートの床とイエロークリームの壁のsimpleなcontrastが(妙に落ち着く」シンプリシティを構成している印象だ。
どんな名画や彫刻だろうがそのbalanceを壊さず、高めることは出来ない既に完成されている空間なのである。
まあ元来、ぼくとしてはこのカフェのあり方が現代の茶室だなと感じていたぐらいであるからして床の間変わりに絵の一枚ぐらい飾っても良いわけであるが、その一枚ですら不要であるし、すでにその一枚は「本棚自体」なのではとも考えられてしまうのである。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、 画、陶が生まれて、それを飾るギャルリーができる。 ここに画家、作陶家という使命が 降り、ここに詩・哲学的思想を持つ空間ができる。肩の力を抜いてやれば、見に来る、手に取る客も、また力が抜ける。そのとき、それが本当の「美」のあり方なんだと気づけばこれ以上のことはないわけでmasterはそれをやりたいんだな、やりたかったんだなと。
大きなギャルリー然としたカフェをやれば、見せる方も見る方も力が抜けない。そこにある日常の延長線上のように自然に「美」と関わって欲しい提案のために、ある日突然「ギャルリー」と化しているのなら非常にmasterらしいなとも。
翌週にまた店を覗いた。もう店には絵もなければ作品もない。masterが笑って
「絵がなくなってさみしくなったと何人かの客から文句言われちゃいました。」と