「これが道ですと示せるような道は。恒常の道ではない。これが名ですと示せるような名は、恒常の名ではない。天地が生成され始めるときには、まだ名は無く、万物があらわれてきて名が定立された。そこで、いつでも欲がない立場に立てば道の微妙で奥深いありさまが見てとれ、いつでも欲がある立場に立てば万物が活動する結果のさまざまな現象が見えるだけ。この二つのもの・・・・微妙で奥深いありさまと、万物が活動しているありさまは、道という同じ根元から出てくるものであるが、このように違った言い方をされる。ただ同じ根元から出てくるので、ほの暗く奥深いものと言われるが、そのように言うと道の活動も万物の活動も同じになるから、ほの暗く奥深いうえにも奥深いものが指定されていき、そのような奥深い上にも奥深いものから、あらゆる微妙なものが生まれてくるんじゃよ」

「かなり失礼な言い方ですが大変その物言いは煩雑で分かりにくい表現です。欲の無い立場と欲がある立場で世の中は違うと仰られている?」

「同じものであるが心の持ちようによって万物は違って見える、まあそういうことになる」

「では我々は道があれば万物を生み出されそれに従えばいい?」

「いやちと違う。道が万物を生み出し、徳がそれらを育てる。物としての形体が与えられ、何かの働きを持つものとして完成する。そういうわけで万物は、みな道を尊び徳を尊ぶのである。道や徳が尊貴であるのは、そものだれかが尊貴の位に任命したからではなく、いつでも自ずからそうなのだ、だから、道は万物を生み出し、養い育て、成長させ、育み、形をしっかり定め、中身を完成させ、慈しみ、庇護する。生育しても所有はせず、恩沢を施しても見返りは求めず、成長させも支配はしない。これを奥深い徳というのじゃよ。」

「先生の言うところの徳という置き方は我々人間の心にある徳という言葉よりもさらに大きな天地自然にも見えない徳が働きかけている意味なのですね」