今どきのSNSの友人とは訳が違うのである。

僕はモリスとジョーンズは運命の友人ではないかと思っている。
オックスフォード大学で出会い、共にフランスを旅して宿命の啓示を受けて、同じ工房で働き、友の死を儚んだ。
ウィリアムモリスの功績のわかりやすさと比べると余りにもバーン=ジョーンズは影に隠れている印象であるが彼の藝術力は逞しいものである。
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バーン=ジョーンズの芸術は多くに文学作品から着想を得ている。
15世紀のトマス・マロリーによる『アーサー王物語』や、
14世紀のジェフリー・チョーサーによる物語、
そしてペローの童話『眠り姫』を始め、
さまざまな文学的素材を主題としたバーン=ジョーンズの代表作が存在する。
大学生の頃、モリスとともに読みふけった中世の物語詩は、
ごく初期の挿絵から装飾芸術、大型の絵画作品へといたるまで、
その画業全体に通底するモティーフとなっている。
そして晩年には、青春時代にモリスと夢見てかなわなかった、
挿絵入りの『チョーサー著作集』の実現に力を注いだのである。
これこそが両者の友情の結実であり、
畏れ多い『 世界三大美書 』と称されることになる。
僕は三菱美術館にてこのケルムスコット・プレス版の同著作集を見ることになったのであるが
ひと目で彼らの業であることを悟った。
モリスのそれはすぐに分かるが逆に挿絵は誰であろうと興味が沸く。

「『夢の国』に住む一番素敵な若者の一人」 時代の寵児ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティにそう云わしめた気鋭の画家エドワード・バーン=ジョーンズ(1833-98)は、イギリスの工業都市バーミンガムで額縁職人の子として生まれ、オックスフォード大学において生涯の友ウィリアム・モリスと出会い、1861年にはアーツ・アンド・クラフツ運動の起点となる共同事業を創始した。そして、19世紀末には、その詩情にみちた静謐な画風によってヴィクトリア朝絵画の頂点をきわめる。しかし、バーン=ジョーンズの活動については、これまでラファエロ前派やモリス商会とのかかわりから注目されることが多く、その全体像が十分に把握されてきたとはいえない。

聖職・牧師をめざしていたバーン=ジョーンズが芸術の道を志そうと決めたのは、モリスと北フランスの大聖堂を巡った1855年。翌年、大学を去ったバーン=ジョーンズは、前衛芸術家として知られるロセッティに弟子入りし、美術批評家ジョン・ラスキンの導きでイタリア美術を学ぶ。生来の才能を開花させて、唯一無二の装飾デザイナーとしてモリスの活動を支える一方で、自身の絵画制作においては、装飾性と象徴性をあわせもつ独自の様式を確立した。その精緻な画風によって唯美主義運動を推し進め、象徴主義絵画の先駆けとなった。

 改めてケルムスコットプレス チョーサー作品集を見てみよう。
『チョーサー作品集』は、ケルムスコット・プレスを創始し、華麗なデザインと美術印刷で一世を風靡したウィリアム・モリスの最高傑作として知られる。過去に英国で出版された書物の中でも最も秀麗な本のひとつ。ウィリアム・モリスが装幀を担当し、木版の挿絵はエドワード・バーン=ジョーンズが描いた。文字のタイポグラフィと、ラファエル前派の甘美で浪漫主義的なスタイルの挿絵とが、完璧なエディトリアル・デザインのもとに一体となって表現されており、共同作業による書物芸術の粋ともいうべき作品となっている。
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 産業資本主義の発展の陰で、安価に大量生産された書物が出回った19世紀後半の英国で、こういった流れに反抗するかのように、手作りの書物生産の精神を目指す「中世を夢見る人」が出現した。ヴィクトリア朝社会が生んだ巨人の一人、ウィリアム・モリスとジョーンズである。昨今わが国でも開催される展覧会でも分かるように、英国の美術工芸家(工芸運動生みの親)、詩人(桂冠詩人に推薦されたことがある)、社会運動家(マルクス主義者)として有名なモリスは、生涯の最後の数年間を「理想の書物」を生み出すために腐心した。そして1891年に創設したのがこのケルムスコット・プレスである。その呼称は、オクスフォード郊外に彼の別荘がある村の名前から採用された。

 モリスは、バーナード・クォリッチ書店から購入した16世紀初期の印刷本に用いられた活字を研究して、3種類の活字(ゴールデン、トロイ、チョーサー)をデザインし、厚手の手漉きの紙を作らせた。標題や挿絵のデザインには、後期ラファエル前派の親友画家エドワード・バーン・ジョーンズ Sir Edward Coley Burne-Jones (1833-1893)が協力した。また余白の美を主張して、本文を囲む4つの余白の比率が一番美しくなる「モリスの法則」を提唱した。湿らせた手漉き紙をアルビオン手引き印刷機で刷った紙の表面には、印圧で凸凹ができるが、そのままの美しさを維持するために、製本する際には圧力をかけすぎないようにと、わざわざ印刷したメモを顧客に渡すこ ともあった。
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 ケルムスコット・プレス創設以来ずっと、モリスとバーン・ジョーンズは英詩の父、ジェフリー・チョーサーの著作集を出版したいと考えて奔走した。その当時出版されていた最良の本文はW. W.スキート教授の編纂による校訂版だったが、出版元のオクスフォード大学出版局との折り合いがつかず、最終的にはモリスの友人F. S. エリスが少々現代英語の綴りに直した本文が用いられた。モリス自身が「本質的には芸術作品」と呼んだように、本書はそのタイポグラフィーや装飾、とりわけ挿絵を「愛でる」ための書物だった。多くの読者を魅了したのは、バーン・ジョーンズによる87点の木版挿絵だったに違いない。夕方になると、モリスはバーン・ジョーンズの家を訪れて、チョーサー作品を声高らかに朗読した後、二人で挿絵の構想を練った。キャクストン印刷による初版(1476年ごろ)以来、繰り返し印刷されてきた『カンタベリー物語』の刊本だが、本書が出版されるまで、物語の場面を描いた挿絵はなかった。これは驚くべきことであり、すべての挿絵は二人の着想から生まれ出た。二人は大英博物館やオクスフォードのボドリー図書館を訪れては、チョーサーの種本となったイタリア語の装飾写本を調べて、挿絵の主題を考えたのだった。

 しかし、バーン・ジョーンズによる挿絵の選択は恣意的だった。彼は自分の好みに合う物語に挿絵を多く入れたのである。彼が最も興味を抱いたのは、宮廷風恋愛やフランス風・イタリア風の洗練された語り部チョーサーだった。それゆえ、騎士道ロマンスには熱心だったが、ファブリオー(滑稽譚)というジャンルに属する「粉屋の話」のような、猥雑で現実的な物語には黙して、挿絵を描こうとしなかった。これは俗にヴィクトリア趣味と呼ばれる、乙に澄ました倫理観の現れといえよう。もっともバーン・ジョーンズでさえ、現実の生活ではモデルを務めたマリア・ザンバコとの爛れるような不倫に溺れていたのだが。
モリスが没する2年前の1896年5月に完成した『チョーサー著作集』は、紙刷り425部、ヴェラム刷り13部が印刷された。前者の頒価は20ポンド、後者は120ギニー(132ポンド)だった。筆者の知る限り、わが国にはケルムスコット・プレスの全出版物が9セットも将来しており、それ以外にも確認されているから、『チョーサー著作集』はおそらく15部ぐらいは現存するだろう。ただしすべて紙刷り本である。モリスは多くの場合、顧客が再製本することを考えてホランド装丁かリンプ・ヴェラム装丁にしたが、『チョーサー著作集』ではダヴズ製本所で紙刷り本46部、ヴェラム刷り本2部を、特別豚革装丁本に仕立てた。これはさらに高価であるが、東京大学、モリサワ、日本大学、うらわ美術館はこれを擁する。
いずれにせよ、『チョーサー著作集』は昔も今も大変美しく、また大変高価であることに変わりがない。わが国では特に戦後ケルムスコット・プレスへの関心が高まり、庄司浅水氏が「世界三大美書のひとつ」と称えたこともあいまって、本書は愛書家にとって垂涎の的となった。

 こうしてチョーサー作品集の出で立ちを振り返ると改めて二人の関係が色濃く浮き出てくる。
実を言えば、モリスは人生で常に敗残者だった。若いころ意図した建築家にはなれなかった。結婚した妻ジェーン・バーデンは、友人ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティと一緒に、自分が買ったケルムスコット・マナーで暮らした。画家としては一枚の油彩を残したに過ぎない。中世の教会を守るために教会修復に反対する協会を作ったが、うまく行かなかった。
そんな彼の心を癒したのは誰であろうバーン・ジョーンズだったのであろう。その逆もしかり。
しかしそんな彼らのどちらが欠けても偉大なるこれらの藝術史が存在しなかった。
バーン=ジョーンズの全貌は日本で知られることが無かった。彼の作品の多くは世界屈指のコレクションを収蔵するバーミンガム美術館に所蔵されており油彩画、水彩画、素描、貴重書、タペストリなどが展示されている。
ウィリアムモリス生誕記念で沸く日本であるのだが改めてこの親友、敬友ハー゙ン=ジョーンズを知って欲しいと思うのである。