三菱美術館にてフェリックスヴァロットンの「ポーカー」という絵が忘れられなく
再度確認に訪ねた。
僕はリトグラフという概念はかなり嫌いなほうで
木版画はOKであるが
油彩となるとゆるされまじと思っているほうだ
ただこの絵はオルセー美術館に一枚しかないゆえに
所有することは天文学的に難しいときている。
となると複製画をキャンバス加工でしかも油彩タッチの確かなものでも
許容せざるをえないかと妥協しながら三菱のショップに行ったわけだ。
答えは前回のヴァロットン展にてはこの絵は複製画にしていなかったと・・・。
残念・・。
ただあのヴァロットン展の期間中であったならオルセー美術館に申請して複製画を作成するのは可能であったと。
う〜ん、とても残念であった・・。
前回のヴァロットン展覧はとっても好評でしかも日本初っであったんでまた再度開催は堅いか・・。
いずれ再度、所有できる可能性もある。
(一応、いろいろなポスターサイトでこの絵は油彩タッチで注文できるのであるがどうもそのレベルに確証が持てない、やはり確実なところで しかもいつも認めていない複製画ゆえに。。)
さてなんでこの絵に惹かれたのだろう?
それは構図にある。
ヴァロットンはポーカーを木版画でも描いており、また新婚当初は家族団らんの食事風景も描いている。
それらの特徴は彼らをアップで描いているわけであるが
この絵がとってもユニークであるのは
向かって左の片隅にポーカーしている彼らが寄って描かれており
右の片隅に椅子が一つ
そして手前に大きなテーブルとランプ
このとてつもないアンバランスな構図はこの当時も今も
異様な風情を放っているわけで
しかもこの遠近感とランプの光のバランスなどで
不思議と落ち着いた安心感の中で引きこまれていくのである。
一説にはあの空席の椅子はヴァロットンのものであったとされており
彼のつまり富豪画商の娘と結婚してそのライフスタイルになじめなかったとする定説もあるのだが
僕はまったくその逆であったと想像している。
つまりヴァロットンは野心家でありそうでなければ彼はその娘と結婚しなかったであろうし
そんな自分を受容してそしてその憧れたライフスタイルを好んでいたからこそ描いた。
ただし、その描き方がいつもどこか哀愁があるのは彼の心の在り方であったかもしれない。
なじめなかったというよりはなじんでいたが
彼の心のよりどころがどこにあったのか・・。
やはり元来、彼は素朴な人間であったのであるが野心家で成功を夢見てそんなライフスタイルにも馴染んで
彼なりに謳歌している。
ただここにそれらの人たちへの「皮肉」も込められている印象だ。
その答えは木版画にある。
木版画となるとその作風は一変するかのように大胆な構図で力強く、常に皮肉に満ちている。
これを見なければ「ポーカー」の本当にひそむ二面性を理解できないかもしれない。
ついつい冷たく、哀愁に、寂し気と学芸員は解説したがるヴァロットンであるのだが
この力強いアイロニカルな野心家という二面性こそヴァロットンの真骨頂であると僕は見ている。
このポーカーという絵 本当に大好きである。