古代ギリシャでの汝自身を知れより、
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」、
そしてエリクソンが体系として纏めたアイデンティティー。


過去世があろうとなかろうと私たちの遺伝子には
脈々と刻み込まれた 「 己 」の不明瞭さ
確認する作業なのでしょうか。

はたまた
己の儚さ、弱さを
確認する作業なのでしょうか?



自己の確立をめざそうとも目指さずとも

( いえ 、そんな確立などもおこがましいとも言えます。)


幾度にも幾重にもそれは繰り返されています。



今の時点でのキーワードは 

「 流転と不完全性への受容 」

としております。


それは上記の哲学、心理学者たちの言葉では
かたく陳腐にさえ見えてきます。

あえて引用するのならぼんやりした陰影

トルストイの「戦争と平和」で見えた泡

夏目漱石の「こころ」で東大の卒業証書を丸めたときに見えた世界

僕が昨年、名古屋の公園でひらひら舞い降りたいちまいの落ち葉のさま

なんとも自己とはそんなもののような気がするのです。

自分で理解するのなどとも自分で築き上げるなどともおこがましく

自己を見つめるなども省察するなどとも気恥ずかしくもあり

自己を否定したり肯定するなんていうのは虚であり空なる所業かとも考えます。

めまぐるしく流転のさまにありながら、それほど動体視力に富んでいるわけでもない
わたしたちは外をなんとかぼんやり見ているだけであり
(それさえも空なのでありますが)
もっと内なるさまは何倍もの速さで流転しているわけですから
見える道理がありません。

まあ、流れていきましょうか。

せっせと流れていきましょうか。

転がっていきましょうか。

ころころと転がっていきましょうか。


そうやって不完全な道程と知りつつも流転は続いていくのであります。