個人の居場所として、室内というものがヨーロッパではっきりと意識され始めたのは、歴史家レオ・スピッツァーによれば、17世紀後半になるとのこと。
私的小説、私小説の歴史と私的なインテリア空間の歴史が全くの無関与であるなどと誰が論ぜられようか。
この関係は必然である。
「私人」という概念に端を発し「私的室内」を必需することにより、「私の部屋」などという貴族だけでなく民衆全般にその概念が根を下ろすことになれば自然と「私的な文学」にその空間の様子が描かれるのは摂理なのだ。
ただし現代文学においてあまりこの室内空間に言及せずに物語を淡々と人間情緒や風景など空間外で進めている手法はスーザンスチュアートの言葉を借りれば
「 記述されないことは、記述そのものと同等にイデオロギー的である 」と言えるのかもしれないがそれはといとも寂しいものだ。
その観点ではこの現代とやらは生活空間の描写はすでに文学描写として興味の対象から外れてしまったともいえる。(ただしその文学を映像化、映画となるとそうともいえず、逆にその文学の世界観を下手したら崩壊しかえなく文学上以上に一転して重要性を帯びるの皮肉な話だ。)
バルターベンヤミンのパッサージュ論でありエドガーアランポーの室内装飾の哲学などに代表される室内論理はある意味、近代化の中での文学者たちがいかに室内空間創造に躍起になっていたか、いかにそれを自己の確立と同等においていたかをうかがい知るには十分な文献だ。
当時のウィリアムモリスなど室内装飾の初代プロフェッショナルは当然として
一人の文化人であるエドガーアランポーやはたまたトマスカーライルなどが室内装飾に興味を覚えていただけでなく、ついついそれに対する考えまでしゃしゃり出て論述していること自体がエビデンスといえる。
コナンドイルが描いた室内の様子やエミリーブロンテの描く嵐が丘での様子は外の草原ヒース以上に描かれている。
今の時代にどこぞの文学者が室内理論を述べることができるか。
昨日、室内空間の黄金律がないのが黄金律である
と述べた。
何千年という人の歴史で「自己の探求」はあまりにも果てしなく、途方もない。
それゆえ自己の探求よりも手っ取り早く探究、創造できる代替え手段として人は室内空間に関わってきたのではないか。
最近つとにそう思うのである。
私的小説、私小説の歴史と私的なインテリア空間の歴史が全くの無関与であるなどと誰が論ぜられようか。
この関係は必然である。
「私人」という概念に端を発し「私的室内」を必需することにより、「私の部屋」などという貴族だけでなく民衆全般にその概念が根を下ろすことになれば自然と「私的な文学」にその空間の様子が描かれるのは摂理なのだ。
ただし現代文学においてあまりこの室内空間に言及せずに物語を淡々と人間情緒や風景など空間外で進めている手法はスーザンスチュアートの言葉を借りれば
「 記述されないことは、記述そのものと同等にイデオロギー的である 」と言えるのかもしれないがそれはといとも寂しいものだ。
その観点ではこの現代とやらは生活空間の描写はすでに文学描写として興味の対象から外れてしまったともいえる。(ただしその文学を映像化、映画となるとそうともいえず、逆にその文学の世界観を下手したら崩壊しかえなく文学上以上に一転して重要性を帯びるの皮肉な話だ。)
バルターベンヤミンのパッサージュ論でありエドガーアランポーの室内装飾の哲学などに代表される室内論理はある意味、近代化の中での文学者たちがいかに室内空間創造に躍起になっていたか、いかにそれを自己の確立と同等においていたかをうかがい知るには十分な文献だ。
当時のウィリアムモリスなど室内装飾の初代プロフェッショナルは当然として
一人の文化人であるエドガーアランポーやはたまたトマスカーライルなどが室内装飾に興味を覚えていただけでなく、ついついそれに対する考えまでしゃしゃり出て論述していること自体がエビデンスといえる。
コナンドイルが描いた室内の様子やエミリーブロンテの描く嵐が丘での様子は外の草原ヒース以上に描かれている。
今の時代にどこぞの文学者が室内理論を述べることができるか。
昨日、室内空間の黄金律がないのが黄金律である
と述べた。
何千年という人の歴史で「自己の探求」はあまりにも果てしなく、途方もない。
それゆえ自己の探求よりも手っ取り早く探究、創造できる代替え手段として人は室内空間に関わってきたのではないか。
最近つとにそう思うのである。