「 これが荒涼たるあの嵐が丘のヒースだ!ソイ見てみろ」
ハワースにバスが近づくと開口一番義父ヒッチコックが大きな声をあげた。
先まで寝ていたはずであったが、まさに我が意を得たりで活き活きと小説を語り始めた。
ぼくらの世代は小説「嵐が丘」とは正直、名作と言ってもあまりにも隔てておりピンと来ない。
ただし、我が家にはこの小説のペンギンブックスのポスターが貼ってあるわけで・・・。
ハワースでは、この急こう配の石畳を4人で歩いたものだ。
以前のこの街の暮らしと言ったら荒涼たる街でありそれはそれは貧しく何もなく厳しかったようだ。
「ワザリング・ハイツ」
このワザリングとはこの地方独特の言い回しだそうで、激しく吹きすさぶ風を意味する。
シャーロット、ブランウェル、エミリー、アンのブロンテ三姉妹と兄はこの風に何を思ったのだろうか。
エミリーが描いたこの「嵐が丘」。
「 イングランドじゅうどこを捜しても、これほど完全に騒がしい世間から隔離された場所は見つかるまい。付き合い嫌いの人間にとっては、まさに天国ともいうべきであろう。」
この行間の意から彼女がこの地を好んでいた様子がわかる。
1847年に三姉妹は次々と小説を発表しているのであるがベストセラーになった姉シャーロットの「シェインエアー」と思えば
エミリーの「嵐が丘」に対する批判・批評が手厳しく
「太陽を必要としている時期に現れた不快な物語」と酷評された。
ただ彼女エミリーはこの批判に飄々としていたというからまさに彼女の境地は激しい風にもろとも揺るがない丘、ワザリングハイツそのものだったしれない。
エミリーはこの翌年、このたった一作の小説を残して病死する。
一般的に
恋らしい恋もせず、結婚もせず、子どもも宿らず、女性として何を思ったであろうかとも思いを巡らすが
そこは世間の大きなお世話であり
おそらくエミリーは幸せであっただろうし
彼女の魂がこの今の荒涼たるハワースを照らし続けていることが職業作家として至上の喜びであるに違いない。
大変、余談であるがこのワザリングハイツの我が家のポスターであるペンギンブックスは定価6ペンスのペーパーバック。そこにアガサクリスティーが深く絡んでいたことはのちのち知ることとなった。(改めて後述したい。)