学生時代に杉田くんがぼくのジャケットの後ろをつかんで
ブランド名を確認する。
そして
「 へぇ〜 」と

ぼくはいやだったことを思い出した。

ぼくは僕でありそのブランドでもない。

そのブランドに所有された覚えもない。

タイラー・ダーデンの「お前はお前の着ているそのくそったれのブランドじゃない」

ミルバーンとライアンが深くうなづいたようにぼくも映画館で大きくうなづいた。

そしてネット世代の申し子たち、高城氏や彼らがミニマリズムに傾倒していった。

がぼくは、いまだに自称マキシマリストを傾倒しつづけている。

ぼくは

ミニマリストであろうと マキシマリストであろうと またどちらでもなかろうと
どうだっていいこととシンプルに考えているだけだ。

物が増えようが減ろうが自分の感覚の中でとらえていれば済むことだと思っている。

人が必要なものはそれぞれ違うし許容量も違う。

まったくものを持たなくても持ちすぎてもいいだろう。

だたそのものの所有者であればいつかはその所在に責任を持つこととなることだけは確かだ、

ミニマリストがマキシマリストに批判を、またその逆もおかしい。
それぞれがいて成り立っている世の中だ。


その一例を見てみよう。

とある自然派の生活にあこがれたミニマリスト、自分で服を作りそれを売ることで生計を成り立たせている。
その服を購入する人たちはそれを買い続けた場合、ミニマリストであろうか。
実に多くの現代のミニマリストの生活は現代資本主義のお金と往々にして矛盾したマキシマリストの財布によって賄われている可能性もある。世の中実に持ちつ持たれつなのである。

アメリカのアーミッシュの現在の財源は「観光とその家具などの商品」。
それを購入するマキシマリストなどによって
支えられている。


また多くの俄か文筆家が描く「ミニマリストのすすめ」「断捨離」「ミニマリズム」

彼らの多くが「マキシマリスト」からの転身であることがそれを物語っている。

これはぼくがいつも言うところの
「一度太らないとダイエット本は書けない」理論と共通である。


もう一度いおう。

物があろうがなかろうが自分は自分であり何も変わらない。

マキシマリストであろうとミニマリストであろうとそのどちらかでもなかろうと
関係のないことだ。

物がなくならないと自分が見えないなら捨てればいいだろう。
物があっても自分が確認されればそれでいい。
ただし最終的にはその物の所在を決めて責任を取らなくてはいけない。
ただそれだけの話。
だだそれだけの。
自分が捨てて気持ち良くなって「断捨離本」出して金儲け。
勝手にしたらいいでしょう。


ミルバーンとライアンが究極のミニマリスト宣言をしたパートナーであるのなら

ぼくソイとつまアフラックは究極のマキシマリストと究極のミニマリストの凸凹パートナーである。

アフラックはそこに心があれば何もいらないこころ至上主義者であり

ミルバーンとライアンたちよりはっきりすごいといえるのは
アフラックは生まれてこの方、ミニマリストであり続けているところである。
(ダイエットに例えるなら生まれてこの方痩せていることになるのでえらくないか)

そしてアフラックはぼくのマキシマリストに一切の批判は言わない。
これはもっとも凄いことだ。敬服に値するだろう。

森羅万象を生き抜くというマキシマリストと
そこにこころあれば・・・というミニマリスト

そのはざまにあるものは
やはり 自分なりにいきる ということなのではと

みなさんはどちら?

そうでしたね。

どっちでもいいじゃありませんか
どっちにしたって じぶんはじぶん あなたはあなた
ですから