
ぼくたちがサンフランシスコをぶらり立ち寄ったとき、彼のことを語らずに終わることができない。
Nakamura masterその人である。
多くの門下生が育ったそのカフェという名を借りた学校はもう彼とともに無いのであるが
賢者から教わった信念は年々、日を増すごとに積もるばかりである。

彼との出会いはもう早14年前ぐらいのことであろうか。
いつものように直観的にくるまで通り過ぎて、バッグで引き返してお店に飛び入りしたあの出会いである。
なんとも大きなメニューがあってそれが何ページにもなって思わずその場で大声で笑ったものだ。
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あの日以来、年齢を超えて僕たちは敬友とは失敬!
心から信頼できる間柄になったわけであるが
それがサンフランシスコに留学中も長いメールのやり取りを絡ませて確固たるものになった.
僕にとっては2006年4月2日に親友を不治の癌で喪失したあの日、苦しかったあの気持ちまで中村マスターには心置きなく喋ったことも大きい。(あの事を喋ったのはほとんどいないわけであとひとりぐらいか)
ただ、今更ながらサンフランシスコの地で賢者とのメールのやり取りを敢えて振り返ることにしたのは偶然ではないだろう。必然、その時がきたのかもしれない。
soman先生、yuriさんこんにちわ。
昨日はご繁忙の折お訪ね下さり恐縮です。
いつもながらのご愛顧、感謝申し上げます。
さて、
先にお話申し上げました絵本の供出ですが、
先様のご負担の無い様取り計らいたいと
存じます。
また、私の一方的な虚善にならない様に
とも考えます。
受領をご検討頂けましたら、本の選定と
クリーニングに着手致します。
選定本はノン・セクトでコンディション-
fineもしくはgoodで出来るだけ美装を前提
に選書致します。
宗万先生のお手わずらいにならないように
願いますが、少しのご助力を頂けましたら
幸甚です。
ご面倒をおかけ致しますがよろしくお願い
申し上げます。
なお本件の固辞の折は他所をあたりますので
余裕を含めてご検討ください。
それではまた。
kinderbook 中村 2006,6,24
おそらく僕に打診があったのが6月ぐらいであったろうと思う。
最初は何かの冗談だと思った。だってこのお店の代名詞であった絵本をすべて寄贈するなんて考えにくいわけですからね。 これ真面目だなと思ったとき、うーん大層今回は大真面目に重く受け止めないといけないなと腹をくくったわけで。
あのメールの最後の追伸に触れたい。
追伸:
> 最近読んだ本の中に、主が坪庭に望み観月、
> 杯を傾け、のち酩酊、ションベンをたれる
> 下りあり、なかなかに乙な風景だと思うのは
> 私だけでしょうか?
これは賢者特有の重くなりすぎの照れ隠しの冗談交じりの一文であろう。
色々、今思い出すと寄贈っていう手続きは大変面倒でやっかいで賢者・中村マスターをかなり待たせたわけである。なんやかんやで時間がかかり結局僕が受け取ったのは翌年2007年2月11日!!
これには中村マスターも2006年12/31に
本年中は大変お世話を頂きました。
改めまして感謝申し上げます。
来年もどうぞご愛顧を賜ります様
お願い申し上げます。
さて、過日はお約束のお品を依託
出来ず失念です。
次期ご面倒を頂きますが何卒
よろしくお願い申し上げます。
失筆の賀状がそちらに参りますが
傲慢不遜、どうぞ嘲笑を頂けます様に。
と挨拶メールがあったわけで・・・。本来の並々ならぬ思いがあった様子が伺える。
僕が確か感謝状を携えてお店に赴いたのがこれまた不明瞭であるのだが4月ごろ、
僕が雑誌和楽をマスターにいただいたのが5月、6月は僕たちは宮崎やら色々方々で向いて
なかなかお店に伺えず。
そして7月6日現世でのお別れとなったのであるが。
彼の名誉のために擁護すれば彼は病死である。ここ何十年欠かさず書いていた母への感謝の手紙はその日もいつものようにテーブルの上にしたためられていて何一つ変わらず次の日の自転車を玄関まで動かす手間さえ気遣っていた。彼の死を聞いたとき、夏目漱石の「こころ」を思い出すのは必然であり、今もってサンフランシスコの地であの時の事実と時間経過を思い出しても不自然なことばかりが浮かぶ。
終局、彼はいつものように床につき、翌日眠るように床で家族に発見されている。警察も何一つ不自然なことが無いとして病死とした。
あれ以来、賢者の母と連絡をとったり賢者マスターのことで知りうる事実はありったけ知っておきたい気持ちであったのであるがある時、アフラックに言われてそれもやめている。
色々、賢者とのやり取りで今もって常時、学ばされていることが多い。
あらためてあらためて 日々感謝しております。
