どうしても河井さんに陶芸とは違う木彫り作品について色々聞きたくて
夢枕でタイムスリップして60年ほど遡って 会ってきました。
こちらは昭和32年1957年であります

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ぼく:最近、陶芸よりこちら木彫りに打ち込んでいるようですがそもそも木彫りの始まりは?

河井:まあはじまりはなんていいますか、陶器では造形的な面でどうしても出来ないものがある。
それで木を素材として自分の好きな彫りで造型をやってみたわけですが、やっぱりやってみると
陶器を作ると同じ気持ちでなければ出来ないということが分かった。

ぼく:なるほど、かなり本腰でないとできない、生半可じゃ到底無理な代物ですね

河井: そう、気持ちは同じでも陶器とは全然別物だということもわかった はじめはキツネやら作ったのだが それから「 手 」が面白くなり 上にまるがついたものを始めた

ぼく: 丸はなにか意味があるのですか?

河井: ただ作るときは昔からあるものは全然無視して 自分の作りたいように勝手にやったんで
指の上に丸をつけたって別に意味はないんだ

ぼく: じゃあ手に夢中になったのはなぜで?

河井: 手の始まりはちょっと描いていて これになったんだ。 そして指の先に丸を作ってみて考えた。これは油断できんぞ、油断すると玉が落ちるし、
これは 自分の中の阿弥陀如来だなと 思ったね。
だって 阿弥陀如来さんは われわれが 寝ているときも、寝ていない時も 油断なく見つめているんだから、 手の上の玉も同じでこれは油断できないぞ、とそういうことがわかった、
それが 今の 自分に対するこたえだ。
我儘勝手なもので他用のものでなく自分用のがほしいから色々出来た。
作るときも自分をしばらないで自由に作っているんだ。

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ぼく:つまり無題なのですか

河井: そうだ、全部 ぜんぶが無題だ。題なんかありやしない。

ぼく:材料はなんです?

河井:木は欅がほとんどだが一番最初にやった2つはこの家を造ったときの余った材料で作ったんで
松と檜だな。

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ぼく: よくみると、これは祈りの手?なんだといわれませんか

河井:そういうことはとく訊かれる。アメリカ人なんかもよく聞くね。
「 これはなんだ 」と
実際には 自分でもわからないんだ。(笑)
なんべんもなんべんも聞かれるが 答えはいつも
「 それはそんなもんですね 」というより仕方がないんだ。

ぼく: 受け手のとおりにまかせるということ?

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河井:見る人の受け取り方で何とでも解釈されていいのだ。 祈りでも仏臭さでもいい。
民族的なものとでも、 ただ意識したものでもなく、元来色々なものがある、又いろいろなものを見るし知ってもいるが、そういうものを無理して作ろうとしたものでなく、もっとすなおな気持ちで出来たものだ。そんなに意識的なものではない。

ぼく: 木以外でもほかに興味あるのですか 金属とか

河井: そうだ、自分としてもいずれ全部 鉄とかブロンズ、真鍮などにしたいもんだと思っているんだ  いろいろ土や木以外の素材にも興味がある

ぼく :どんな素材でも自分のものを感じてうみだす?

河井:自分たちが 人間として恵まれた智慧よりも、もっと本能的なものだと思うんだ。 
だから
いうなら 本能から出た一人の人間の生命だな

ぼく: それは陶器を作るときも木彫りをするときもおんなじなのですか?
余技とか本業というくくりはあるのですか?

河井:余技ではないな。 

仕事には本業だの余技だのなんかないんだ。
自分のやったしごとは全部が本業だよ。

ぼく: となると木彫りはこれからもますますやりますね

河井:やるやる、むしろやりたい。 
もう身体の中に胎動しているものがあるからね、これからも作ってみたいと思う。
自分でも何が出来るかわからないが とにかく身体の中にあるものを作り出したい!

河井寛次郎の 「 手 」をさすってさすって目を覚ました

夢枕で 45分程度か 起きて懸命に一心不乱にメモを書いた。 午前5時45分だ、
生き生きと魂を込めて話す河井寛次郎さんは 想像どおりの真面目な職人という印象だった。

朝早く 職場に顔を出すと 上司が駆け寄ってきた

「 言われた通り 薦められた 河井寛次郎展 みてきたぞ めちゃくちゃ感動したよ 」
思わず 今日 会ってきました と言いそうになって 笑った、