パリに来てくれた貢献者は
僕でもユリさんでもなく
レミーかもしれない。
ぼくもアノンさんも
何度も何度でも観た映画
パリが舞台である。
素敵な音楽とパリが実に
生き生きと描かれ
台詞もいい。
料理評論家のイーゴさんの
最後の評論が胸を打つ
「 評論家とは気楽な稼業だ。
危険を犯すこともなく、料理人たちの必死の努力の結晶に、審判を下すだけでよい。
辛口な評論は、書くのも読むのも楽しいし、商売になる。だが、評論家には、苦々しい真実がつきまとう。たとえ評論家にはこけ降ろされ、三流品と呼ばれたとしても、料理自体の方が、評論より意味がある。
しかし、時に評論家も冒険する。その冒険とは、新しい才能を見つけ、守ること。世間は往往にして新しい才能や創造物に冷たい。新人には味方が必要だ。
昨夜、私は新しいものに巡り合った。思いもよらない作り手による素晴らしい料理を味わえたのだ。作品も、その作者も、美味しい料理についての私の先入観を大きく覆した。これは決して大袈裟な表現ではない。まさに衝撃だった。
かつて私は、「誰にでも料理はできる」という、グストーシェフの有名なモットーを嘲笑った。でも、ようやく彼の言いたかったことがわかった気がする。
誰もが偉大な芸術家になれるわけではないが、誰が偉大な芸術家になってもおかしくはない。
グストーのレストランの新しいシェフは、恵まれた環境に生まれ育ってはいない。だが、料理の腕において、フランスで彼の右に出るものはいまい。近いうちにまた訪ねるとしよう。
今度はもっとお腹を空かせて。」
明日アノンさん
Paris郊外の
レミーのレストランに行くのを
心待ちしている。
私いわく
「 執事とは気楽な稼業だ。
偶さかにご主人への気遣いだけを心得て
危険を犯すこともなく、使用人たちの必死の努力の仕事に厳しい様子のしかめ面の目配せを見せるだけで仕事になる。医業も法律業も経営、庭園学も昔ながらの執事業務の延長に過ぎない。
ただし一流ならば昔から仕える御主人のお嬢さんだけにはちょっぴり注意が必要!何人ものご主人に仕えてきた執事ほどこの辺りは心得ているようで、それでも油断して躓いている者は後を絶たない。甘やかしても厳しさだけでも躓いてしまう。何度も何度でも生まれ変わり、
私はついに新たな新手のお嬢さんに出会った。
既に彼女は私が何度も何度でも生まれ変わった執事であることを数年前にスコットランドのエジンバラで見破っていた。
その見切りをつい最近まで黙っていたことも、さらに100年前の失敗談に気遣いを続けていたことも驚愕であったかぎり。
我思う。
執事が仕えてきた貴族や王族を見渡せば誰もが偉人になれるわけではないが、誰が偉人になっても何ら不思議ではない。
そう私の友人SAINT-GERMAIN伯爵も同類の思想家であった
かつて時をさ迷うSAINT-GERMAINは私にこういった
「誰にでも王族に気に入られ 伯爵になれる」と
「 むしろ偉人であり続けることの難しさ、偉人から凡人に成り変わることの哀愁にこそ
人生の真実が潜む 」
ことがわかる。
「 偉人の定義 」
はあなたの心待ち次第や時代で変わるもの!!
ならばその
「心待ちが一番素敵な人こそが実は最も偉人」
だって!!と持論を唱えたとしても
案外この世でしっかり反論できるまともな人なんて指で数えるほどしかいないだろう
そんな心待ちの一番素敵な
ユリさんや
アノンさんを連れだって
星の数ほどある無数の
レストランから
数件のParis一番のレストランを
準備するのは
かなりのやりがいを感じる
わけであり
そして
此方の気遣いを悟られつつ
かなりの動揺と闘いつつ
二人の興奮と感動を期待しつつ
かなりのお腹を空かせて
赴くこととなりますので
シェフ!
あとはよろしく!
ボンジュール。」
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