昭和三十一年秋、ボストン美術館で個展をひらくため、単身、渡米した。ここでまた新しい知遇に恵まれた。画家、岡田謙三夫妻である。まず岡田から満洲子が得たのは、


『物欲しげに、賣込みをしてはいけない。ここでは黙って力いっぱいの作品を外國人に見せなさい』


 そういう教訓であった。ニューヨークに住みはじめて二、三年の孤獨で貧しかった体験から、そう教えたのである。

 羽田を発つ夜、手織の紬に、木綿のさしこじみた粗い帯をしめて、もくせいの花束を抱えた満洲子の姿が、すらりと美しかった。ボストンでもニューヨークでもシカゴでも、和服しか見につけないで過ごした。

はじめ、四ヶ月の滞在予定が、半年から一年近くに延びてしまい、季節ごとに妹の秀子から送ってもらう着物を、そのたびに最初に抱えて見てもらいに行くのが、岡田夫人にきまってしまった……」


前衛書家の安西均が「掌説・篠田桃紅―女流書家売出すー」と題して、芸術新潮(昭和33年10月号)に篠田さんの半生を書いた文の一節である。篠田桃紅さん(本名・満洲子)がボストンのスエゾフ・ギャラリーでの個展のためにその地に立ったのは1956(昭和31)年9月25日のことだった。ボストンでの個展のあと、篠田さんは岡田謙三夫妻に会うべく国立近代美術館の今泉篤男による紹介状を携えてニューヨークに向かった。折りしも、ベティ・パーソンズ ギャラリーで第3回岡田謙三展が開催されている時だった。個展は10月15日から11月3日までを会期に、オープン前の下見会で俳優のフィリップ・ダンカンが岡田作品の理解者でもある鈴木大拙の勧めで「フット・ステップ」を購入したのをはじめ、期間中に展示25点がほぼ完売という状況だった。

ベティ・パーソンズ ギャラリーを訪れた篠田さんがそこで声をかけられたベティ・パーソンに岡田への紹介状を示すと、ベティは岡田に電話をして、翌日、訪問することとなる。

 その日のことを岡田は日記に記している。「朝から三時迄食事も忘れて今日左のほうのスミをすっかり片付けてペンキも塗る。見違へる程小ザッパリとなる。三時に篠田嬢来て五時半まで話しチャンとした人だと解って良かった……」(10月26日)

 この数日後に「ペンキを天井に一寸塗り」と書いているから、個展のために作品を出して傷みのめだつアトリエの補修をしている時だったのだろう。そして篠田さんは岡田との出会いの日をエッセイに書いている。

 

あなたの作るものはいいですか?



 のっけにこう言われた。一九五六年ニューヨーク・グリニッチビレジの岡田謙三氏のスタジオに初めてお訪ねした時である。

「はい」と私は答えていた。どういうわけでそう答えたのか。たぶん、その頃は行きたくてもなかなか行かれなかったアメリカというところへ、個展の招待で、来ることができたということで、それに私もまだそんなに老いてもいなかったから、少しはいい気になっていたのだと思うが、日本だったらやっぱり「いいえ、まだダメで……」というように答えたと思うが、第一、初対面の最初に、そういう質問をする人はあまりいないし、げんにアメリカでも岡田氏より前に会った人は皆たいてい「独りでよく来ましたね」「外国は初めてですか?」などというのがキマリ文句であったから、私は不意を衝かれてついうぬぼれのホンネのようなものが口に出て仕舞ったのかもしれない。


岡田氏は、


「そう、それならいい。それなら話をしましょう。自分の作るものをダメだというようなひととは僕はつき合わない」


 と言われた。私は、これはコワイところへ来ちまったな、と思いながら、一方でスーッと気が楽になるのが自分でわかった。いきなりホンネのおつき合いができるということは何と幸福なことあろうと思ったのだ。今にして思えば、身の程知らずであったが。

 それから三十年、岡田氏夫妻と、ニューヨークで、東京で、レンセラビル村(岡田家の別荘)で、高山や京都やヴァージニア(旅行先)で、お会いする度に、私が感じたものは、芸術家臭の全くない、そして芸術家以外の何家にも当てられないお人、何が美しく何が美しくないかを見る無類な直観力の持ち主だった。



「われわれが作るものは、古くてはいけない。新しいというのもいけない。様式があるのもいけない。弱くてはいけない」



 岡田さんのこの言葉が忘れがたい。


(篠田桃紅随筆集 『おもいのほかの』 1985年 冬樹社)