わが私設美術館にある河井寛次郎先生の作品の出自に疑問をもっていた・・・
ただ疑問があっても いいものはいい
先生の 物買って来る 自分買って来る という 当代きっての名文句がある以上
疑問自体が失礼だ
下写真は当家の河井作品の一部
日本有数の古美術商から 当初は 食籠として説明を受けた
食籠
まあそれでもいいのだろうが京都国立近代美術館にしても駒場にある民芸館にしても川勝コレクションにしてもその出自に当たらない
今年は河井先生 生誕130年にあたり 大山崎に山本為三郎コレクションを探訪し
感嘆の声をあげた・・あげたのは アノン嬢だった
あれ うちの寛次郎やん!!
アノン嬢は失礼なことに大先生を親しみをこめて 「 寛次郎やん 」と呼ぶ
そのコレクションはまさに
所有するあの食籠であったのである!!!!
作品は撮影不可 同館資料より!

思わず 美術館の学芸員を呼び出した
彼女の説明では
「 こちらは1928年御大礼記念東京万博のときに作られた民芸館のちの三國荘由来と訊いております。じつはその建物を山本為三郎さんが建物ごと中身を含めてごっそりお買い上げとなり 山本の自邸 大阪の三國に再建されたのです。現場監督を河井や柳宗悦自らが務めて完成して思い入れのある河井からはその後も三國荘のために器をインスピレーションして作成し多くの作品を供しています。これもその一作品とされているわけです。 正式名称としては鉄釉筒描梅ヶ枝文筥ハコとされます。蓋物とも言いますね。1935年の製作とされつややかで堂々とした存在感に満ちており山本のコレクションでも大変評価が高い作品です。張りのある甲には筒描きで梅ヶ枝文が達者に描かれています。鉄砂に調子があって景色がよく味わい深いです。寛次郎先生の蓋物は各々に個性的であり、筥の形姿の良さはもちろん、容器として中身を引き立てる役割もの十分果たしていますね。 」
合点がいき完全に納得がいった説明であった。筆箱であればとても理が立つ。
山本為三郎も愛用した逸品だけに 俄然 作品を愛護保護していかねばと責も起つ。
かくしてどこの文献を調べても分からなかった疑問は突如 晴れたのである
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イサム・ノグチ
ジョージナカシマ・岡田謙三・篠田桃紅・黒澤明
日米を往来して日米ともに認められた芸術家である。
イサム・ノグチがなぜ庭園美術館をこの地につくり日本で様々なアート文化を残したのか その疑問は尽きなかった。
さあ帰ろうかと思ったその時に 彼に気づいた イサムノグチを知る唯一の人物だ
本当に本当に素晴らしい美術館 正直大げさでもなんでもなく 信じられないほど奇跡の美術館でした
これほどのものがもう50年もまえにこの地にあることも鳥肌がたちます!
「 ありがとう、昔にずいぶんまえに 東京から皆さん来られると 本当にこの地でのことはすべてが不思議でどうしてこんなことが起きているのかわからないって言っていましたよ 」
それはそうですよね、 だってだれも抽象彫刻のちの字も知らない頃に 突然 ふらっと香川に来たと思ったら次々と人が協力して力がお金が注がれていったんですから
「 石を積むところから始まってマル(アトリエ)が 事務蔵が、イサム家が、大きな酒蔵が、そして山を切り崩して山庭へと続く・・どれひとつとっても信じられないほどでかい大変な仕事ですから それが全部 あるわけです 」
この場所って気がいいって妻がいうんですよ 石を切り崩した山の峰が囲んでいて、それに呼応するようにマルの岩峰が続く。 神が宿っているような 変な言い方かもしれませんが神社のようでもあるしサンクチュアリ・聖地でもあるような 。 ノグチ先生からの要望があった地なんですか
「 いくつか瀬戸内海のもっと景色のいい候補地も見せたんですよ。笑 そしたら 僕は景色なんてっさほど大事ではない、一番は仕事がしやすいかどうかだって。 この場所だと石屋の中心で仕事がしやすい なによりボク(ノグチ)が留守でも きみが守ってくれるでしょって・・」
その言葉が訊けたとき
ベンシャーン展での疑問を投げられた。
僕自身もその疑問を感じざるをえないほど洋の東西問わず この二人の関連性に触れられていない
今度はぼくの口を借りて ベンシャーンが答えた
「 彼らは精神性として表裏一体であったと・・・ 二人とも芸術家である前に思想家でした
彼らは その内なる思想の下で表裏一体であったのです 二人で阿吽だったともいえます
ナカシマの支持者や ベンシャーンの支持者には二種類あります。作品が好きか 思想が好きかです。
実際は 作品が好きという方が99%ではないでしょうか。 彼らはそれでいいと納得済みです。
ただし1%未満ですが その精神性・思想から脈々と続いて作品に息を吹き込んでいる それを理解しての支持はとても深遠であります。 彼らと 作品 の間には そんな見えない思想が森羅万象を生むほどのエネルギーを発しているのです。作品から見る視点 精神から見る視点 二人が表裏一体を意識しなくとも 少数派のものが 判っていれば それでいいと言っています 」
これらには 鋳鉄製の重いずっしとしたマルボコの台があって
そこにシュッと一本潔く竹が突き刺される

彼女の説明では
「 こちらは1928年御大礼記念東京万博のときに作られた民芸館のちの三國荘由来と訊いております。じつはその建物を山本為三郎さんが建物ごと中身を含めてごっそりお買い上げとなり 山本の自邸 大阪の三國に再建されたのです。現場監督を河井や柳宗悦自らが務めて完成して思い入れのある河井からはその後も三國荘のために器をインスピレーションして作成し多くの作品を供しています。これもその一作品とされているわけです。 正式名称としては鉄釉筒描梅ヶ枝文筥ハコとされます。蓋物とも言いますね。1935年の製作とされつややかで堂々とした存在感に満ちており山本のコレクションでも大変評価が高い作品です。張りのある甲には筒描きで梅ヶ枝文が達者に描かれています。鉄砂に調子があって景色がよく味わい深いです。寛次郎先生の蓋物は各々に個性的であり、筥の形姿の良さはもちろん、容器として中身を引き立てる役割もの十分果たしていますね。 」
合点がいき完全に納得がいった説明であった。筆箱であればとても理が立つ。
山本為三郎も愛用した逸品だけに 俄然 作品を愛護保護していかねばと責も起つ。
かくしてどこの文献を調べても分からなかった疑問は突如 晴れたのである
▼
イサム・ノグチ
ジョージナカシマ・岡田謙三・篠田桃紅・黒澤明
日米を往来して日米ともに認められた芸術家である。
イサム・ノグチがなぜ庭園美術館をこの地につくり日本で様々なアート文化を残したのか その疑問は尽きなかった。
さあ帰ろうかと思ったその時に 彼に気づいた イサムノグチを知る唯一の人物だ
本当に本当に素晴らしい美術館 正直大げさでもなんでもなく 信じられないほど奇跡の美術館でした
これほどのものがもう50年もまえにこの地にあることも鳥肌がたちます!
「 ありがとう、昔にずいぶんまえに 東京から皆さん来られると 本当にこの地でのことはすべてが不思議でどうしてこんなことが起きているのかわからないって言っていましたよ 」
それはそうですよね、 だってだれも抽象彫刻のちの字も知らない頃に 突然 ふらっと香川に来たと思ったら次々と人が協力して力がお金が注がれていったんですから
「 石を積むところから始まってマル(アトリエ)が 事務蔵が、イサム家が、大きな酒蔵が、そして山を切り崩して山庭へと続く・・どれひとつとっても信じられないほどでかい大変な仕事ですから それが全部 あるわけです 」
この場所って気がいいって妻がいうんですよ 石を切り崩した山の峰が囲んでいて、それに呼応するようにマルの岩峰が続く。 神が宿っているような 変な言い方かもしれませんが神社のようでもあるしサンクチュアリ・聖地でもあるような 。 ノグチ先生からの要望があった地なんですか
「 いくつか瀬戸内海のもっと景色のいい候補地も見せたんですよ。笑 そしたら 僕は景色なんてっさほど大事ではない、一番は仕事がしやすいかどうかだって。 この場所だと石屋の中心で仕事がしやすい なによりボク(ノグチ)が留守でも きみが守ってくれるでしょって・・」
その言葉が訊けたとき
すべてが晴れた。
じんときた。
泣けてきた。
じんときた。
泣けてきた。
ベンシャーンの魂はそこにもあった
ジョージナカシマの場所でそんな事書くなんて可笑しいってお思いでしょう
すると同感された現館長のご親族より
ベンシャーン展での疑問を投げられた。
なぜナカシマがこれ微塵も触れられていないのか
僕自身もその疑問を感じざるをえないほど洋の東西問わず この二人の関連性に触れられていない
今度はぼくの口を借りて ベンシャーンが答えた
「 彼らは精神性として表裏一体であったと・・・ 二人とも芸術家である前に思想家でした
彼らは その内なる思想の下で表裏一体であったのです 二人で阿吽だったともいえます
ナカシマの支持者や ベンシャーンの支持者には二種類あります。作品が好きか 思想が好きかです。
実際は 作品が好きという方が99%ではないでしょうか。 彼らはそれでいいと納得済みです。
ただし1%未満ですが その精神性・思想から脈々と続いて作品に息を吹き込んでいる それを理解しての支持はとても深遠であります。 彼らと 作品 の間には そんな見えない思想が森羅万象を生むほどのエネルギーを発しているのです。作品から見る視点 精神から見る視点 二人が表裏一体を意識しなくとも 少数派のものが 判っていれば それでいいと言っています 」
ジョージナカシマの家具の部屋には
必ずベンシャーン氏のアートを並べていることを告げると喜んで笑みを浮かべた。
もう一つ実は疑問があったのだ
イサムノグチは彫刻家として知られる一方で
作庭家でありインダストリアルデザイナーでもある
彼の灯りは実に暖かで
実に和で日本らしい
そのルーツを知りたかったのだ
理由はこの何とも愛らしい黒い鉄の生産
と良質な竹の入手が困難となったかららしい
これらには 鋳鉄製の重いずっしとしたマルボコの台があって
そこにシュッと一本潔く竹が突き刺される
今は手に入らぬようだが
このデザインだから!
好きなのだ
このデザインのルーツ
イサム家の彼が住んでいた住居の裏庭を見て
イサム家の彼が住んでいた住居の裏庭を見て
すべてが晴れた
此処には あえて彼は彫刻の作品を置かず
此処には あえて彼は彫刻の作品を置かず
シュッとした竹
その上にこの庭石を乗っければ
まさにイサムノグチのakariが現れる
疑問は会って
自ずから
雲間から晴れ上がる
空は青空にシュッと彩られた
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