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国語辞典には個性があります。つまり色々な辞典で意味の色合いが違うんですね、『広辞苑』で「恋」を引くと、一番初めに「一緒に生活できない人や亡くなった人に強くひかれて、切なく思うこと」と書いてある。すると「私、恋しているんです」と言うと「誰か亡くなったんですか」と言われそうですが、万葉集の時代には実際そうだったのです。恋愛感情の意味はその後に書いてあります。『広辞苑』は、古代から現代までの意味を広く眺め渡す辞書なんです。一方で『三省堂国語辞典』の旧版(第6版)では、「恋」は「男女の間で、好きで、会いたい、いつまでもそばにいたいと思う、満たされない気持ちを持つこと」と説明してあり自身はこれがピッタリ来ている。
恋だって満たされることもあるのでは、と思うかもしれませんが、例えば「恋い焦がれる」という言い方の中心にあるのは、その場にいない人に対する思いです。一緒に生活している家族に恋い焦がれるというのは、日本語の使い方としてはちょっとおかしい。恋とは、相手が離れていたり、あるいは、自分に振り向いてくれなかったりして、満たされない気持ちがなければならない。
旅したときやいつも近くに一緒に居たはずなのに離れ離れに感じたときこそ、会えないからこそに特定の人におもい焦がれる ちょっとふらちなことかも知れません. 恋が満たされればどうなるかというと、別の名で呼ばれます。相手を大切にしようとする感情、「愛」になるわけですね。
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実は、最新版の第7版では「恋」などの説明を微妙に変えています。先ほど、旧版では「男女の間で、好きで、会いたい」とありましたが、「人を好きになって、会いたい」と、「人」に変えました。LGBT(性的少数者)の権利がクローズアップされるようになり、「男女の間で」は、もはや少数者差別だと考えるからです。これはもはややり過ぎだったかぁと思います、辞書ですから一般事象つまり男女の話で十分だったとも思います 辞書も人間平等や男女平等で必ず偏見がないようにとか、確実にすべてを捉えようとするとせっかく我が意を得たりと納得合点がいったものが急に中途半端な辞書になってしまいます。
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よく「言葉の変化」について批判されることがあります。でも、変化は言葉の本質そのものです。魚が泳ぐとか、花が咲くというのと同じぐらい、言葉にとって切り離すことのできない性質です。というのも、言葉は、目まぐるしく変わる状況に応じて、ゴムのように伸び縮みさせながら当てはめて使っていくものだからです。変化させて使うのがむしろ普通だと考えてみてください。世代や社会によって、言葉の意味のずれが出てくるのは、その必要があるからです。他の所有している今の新明解国語辞典を見れば恋愛は苦しくもこう書き記される.
「特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと」.
ちょっといい苦しくありませんか!
ならば
そして自身が愛用する第4版で山田忠雄最終編纂版にはもっと切実に記される.
「特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持ちを持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態 」とある。
こっちのほうがしっくりくるな
この気持ちはつとに秋や旅そして距離と時間により強められる 一緒にいられなくなり距離離れてその想いがつのる,一日ふとおもい焦がれ胸が苦しくも思い出す その繰り返し
今年11月に日本で最も売れているこの新明解国語辞典が9年ぶりに改訂出版となる,
恐らくは買わないが、ちらりとは見る
言葉にも距離感が大切ですから

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