孤独がはじまると、それにたやすく馴れ、誰ともほとんど口をきかぬ生活は、
もっとも努力の要らぬものだということが、改めてわかった。
生への焦燥も去った。死んだ毎日は快かった。
かくて余人は知らず、明晰さこそ自己なのであり、
その逆、つまり明晰な自己の持ち主だというのではなかった。
美は遅く来る。
人よりも遅く、人が美と官能とを同時に見出すところよりも、はるかに後から来る。
三島の名文 金閣寺第六章だ。 子供の頃に本棚のど真ん中にこの本が刺さっていた。一番特等席なのかとも思った。父ミフネは三島を好んでいたのであろう。
昨夜は夢を見た。三島が大勢の前で演説をしている。そうかタイムトラベルしてちょうど50年前の日付は11月15日。
彼は訴えていた。大勢の自衛隊員たちは聞く耳を持ち合わせていないようだ。
彼の言葉は良く聞こえなかった。ただ彼の言葉は 空に打ち出さていた。
「 このまま行ったら日本は この日本は無くなってしまうぞ。 無くなるその代わりに無機的な、空っぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、ある経済大国が極東の一角に残るのであろう」 彼はほどなく自決する。仲間が介錯して彼の首を切った。
なぜかぼくは、かれの首のところまで駆け寄った。
そして腰に差す短刀を確認する。やはり・・・祖父の短刀・・孫六か
ここで目が覚める

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三島の文章は美しいがゆえに 儚い。
彼が訴えた日本の50年後は まさにそのまま的中したかのような有様ではある。
武士の国とは到底思えない国にはなった。
川端康成や三島由紀夫 命を懸けた作家たちがいた時代だ。
命をかけてという言葉も 世界的に風化した のんのんとした時代になっている。
改めて 夢でありながら ありのままに彼の自害をまのあたりにして
なんともなんとも複雑な思いで一日過ごした。
割腹で示したかった日本への警鐘は果たされなかったのか
彼の金閣寺を帰り道 図書館で一冊速読して黙とうさせていただいた。
日本への遺言のようにも「 金閣寺 」は読み取れた
金閣寺炎上は まさに日本の崩壊 を危惧してのことだった・・・のでしょうか
今年は没50年、三島文学に日本は活路を見いだせるだろうか
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