死んだデータと生きているデータの違いって?ご存じ?
医学の世界は、すべて省察こそが 発展を産んでいる
省察のミナモトは、記録ということになるが その記録の最たるものがデータということになる
ある方に こんな意見をいただいた
「 このデータの目的は何ですか? 目的の無いデータは意味がありませんよね 」
自身も啞然とした もっと分かっている思慮深い方と思っていたことも災いした
こういうご意見を言う方は結構 医療者でもかじりたてというより
すこしベテランでチョット分かっている傾向がある。
もちろん反論もしない、 なぜなら この質問をした時点で データの本質を失っているからだ
諭すのは無駄かもしれない。
簡単にいえば 「 データ自体には 目的はない 」 え?となるのだが実はそうだ。
「 データ自体には 目的はない 」 つづきがあるわけだ。
「 データ自身ではなくデータの活用によって目的がうまれる 」
「 データ活用の結果 目的が達成されるのだ 」
つまるところ データには一見 目的はないのだが 目的は己にて掘り起こすものだ
これは、ナイチンゲールが日記に実際記していることからしても
医療データというのは、どう活用してどう省察するかにすべてがかかっている。
ちょっとした医療者は、データを集めるときには なぜそれを集めるのかはっきりさせないと目的が達成されないのだと思うのだが 実際の天才的な発見にはどうもその目的ありきのデータ収集は失敗が多く 目的外のところから多くの天才的発見いわゆるブレイクスルーがあるのだという。
つまり はじめから それがそうなると思って つまり それがそれにこのように相関するとか有意差が生まれるという仮定だけでデータを集めると本質的にだれでも気づけることだけを証明しうるだけで
だれでも見落としてしまう気づかない発見には至らないことにぶち当たるのである。
つまり二番煎じしか出来ない、模倣の研究しかしない人ならともかく 誰も証明しえない発見をしようとするのであるのなら常に違うアプローチでデータ収集をする必要があるのである。
ただどこまでデータ収集をするのかは、それこそマンパワーやタイムパワーに押しつぶされてしまうわけなので ある程度 大きく広くどの活用にも耐えうるようにデータ収集の守備範囲を拡大して対応することが望ましい。 この時にそもそも 目的を限局化させる必要もなく 無数の枝葉に対応できるように思考は常に平面よりは立体ベクトル的に多様性な目的に曖昧化することが 矛盾することであるが理想なのである。
自身は、ある程度 限局化しすぎて 単に登録するだけのデータを「死んだデータ」と呼んで
蓄積してそれを活用に都度ハメていく作業のためのデータこそが「生きたデータ」と呼んでいる
▼
またこういう考え方もある
データがその後どのように活用されてそれがフィードバックされない場合は「死んだデータ」と呼んでいる
データが都度適切に活用されてフィードバックがある場合を「生きたデータ」と呼んでいる
このほうがわかりやすいかもしれない
データマネージャーにも心理的に影響がでる
死んだデータばかり対応していると
機械的に陥り非人間的になり鉱物化し精神も病んでくる
まあ機械的line作業をしているだけだもんね 先がない わびしい
生きたデータの対応は 知を産み活力を産んで 不思議と健康的となり徳をつかむ
本当か? 実は本当である。
だからデータマネージングには注力を払う、
データを生きたものとして活き活き働けるように
適時フィードバックを対応して 生きた仕事をしていることを可視化させるために。。。
ちょっと今回はマニアックな話でありますがおわかりいただけただろうか?
ちょっと 普通の方に分かってもらう自信がありませんが・・。
ちょっとしたベテランでも気づかないことなので あしからず。
データを収集している貴方!!
あなたの関わっているデータは生きていますか? 死んでいますか?
医学の世界は、すべて省察こそが 発展を産んでいる
省察のミナモトは、記録ということになるが その記録の最たるものがデータということになる
ある方に こんな意見をいただいた
「 このデータの目的は何ですか? 目的の無いデータは意味がありませんよね 」
自身も啞然とした もっと分かっている思慮深い方と思っていたことも災いした
こういうご意見を言う方は結構 医療者でもかじりたてというより
すこしベテランでチョット分かっている傾向がある。
もちろん反論もしない、 なぜなら この質問をした時点で データの本質を失っているからだ
諭すのは無駄かもしれない。
簡単にいえば 「 データ自体には 目的はない 」 え?となるのだが実はそうだ。
「 データ自体には 目的はない 」 つづきがあるわけだ。
「 データ自身ではなくデータの活用によって目的がうまれる 」
「 データ活用の結果 目的が達成されるのだ 」
つまるところ データには一見 目的はないのだが 目的は己にて掘り起こすものだ
これは、ナイチンゲールが日記に実際記していることからしても
医療データというのは、どう活用してどう省察するかにすべてがかかっている。
ちょっとした医療者は、データを集めるときには なぜそれを集めるのかはっきりさせないと目的が達成されないのだと思うのだが 実際の天才的な発見にはどうもその目的ありきのデータ収集は失敗が多く 目的外のところから多くの天才的発見いわゆるブレイクスルーがあるのだという。
つまり はじめから それがそうなると思って つまり それがそれにこのように相関するとか有意差が生まれるという仮定だけでデータを集めると本質的にだれでも気づけることだけを証明しうるだけで
だれでも見落としてしまう気づかない発見には至らないことにぶち当たるのである。
つまり二番煎じしか出来ない、模倣の研究しかしない人ならともかく 誰も証明しえない発見をしようとするのであるのなら常に違うアプローチでデータ収集をする必要があるのである。
ただどこまでデータ収集をするのかは、それこそマンパワーやタイムパワーに押しつぶされてしまうわけなので ある程度 大きく広くどの活用にも耐えうるようにデータ収集の守備範囲を拡大して対応することが望ましい。 この時にそもそも 目的を限局化させる必要もなく 無数の枝葉に対応できるように思考は常に平面よりは立体ベクトル的に多様性な目的に曖昧化することが 矛盾することであるが理想なのである。
自身は、ある程度 限局化しすぎて 単に登録するだけのデータを「死んだデータ」と呼んで
蓄積してそれを活用に都度ハメていく作業のためのデータこそが「生きたデータ」と呼んでいる
▼
またこういう考え方もある
データがその後どのように活用されてそれがフィードバックされない場合は「死んだデータ」と呼んでいる
データが都度適切に活用されてフィードバックがある場合を「生きたデータ」と呼んでいる
このほうがわかりやすいかもしれない
データマネージャーにも心理的に影響がでる
死んだデータばかり対応していると
機械的に陥り非人間的になり鉱物化し精神も病んでくる
まあ機械的line作業をしているだけだもんね 先がない わびしい
生きたデータの対応は 知を産み活力を産んで 不思議と健康的となり徳をつかむ
本当か? 実は本当である。
だからデータマネージングには注力を払う、
データを生きたものとして活き活き働けるように
適時フィードバックを対応して 生きた仕事をしていることを可視化させるために。。。
ちょっと今回はマニアックな話でありますがおわかりいただけただろうか?
ちょっと 普通の方に分かってもらう自信がありませんが・・。
ちょっとしたベテランでも気づかないことなので あしからず。
データを収集している貴方!!
あなたの関わっているデータは生きていますか? 死んでいますか?
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