パンをちぎってわけ合うこと、塩をわかち合うこと、ひとつのボウルを共有すること。これを単なる必要な行為以上の意味があると感じている人は、ほとんどいないようだ」。これはアメリカの伝説的なフードライター、M・F・K・フィッシャーが残した言葉。「誰かと囲む食卓という根源的なものを、ラジオから聞こえてくる曲のようにあまりにも軽く扱っている。そして何気ない音楽や食事が持つ奥深さと力強さを忘れてしまっている」

実際、気軽な友人や家族との集まりに、特別な力があると意識することは
段々と希薄化しているのかも。

けれども、フィッシャーの「ともに過ごす時間を味わう大切さ」という言葉の本質は
段々と深くなっているのかもしれない

人間は、二足歩行となってから
●公衆トイレ
●貨幣
●スマホ(モノリス)
を地球上のあらゆる生物で唯一所有して
久しいが
他の生物が「ともに過ごす時間を味わう大切さ」の意義を変えていない中で
唯一、その時間の大切さ希薄化して、その先そしてその未来に
何が待ち構えているのかは
殆ど案じてはいない…

「ともに過ごす時間を味わう大切さ」
友人、恋人、家族、仲間
何でもいいだろう


この題名自体が、もはやはるか古(いにしえ)の響きにも、満たない

「ともに過ごす時間を味わう大切さ」
その時間の権利行使最中、なにはともあれスマホを手にする人の余り余るほどの割合に、
ツァラトゥストラの持つ天秤の傾きは90,度を超えているのが見える……