#この手記はReminiscences de l'office du maitre d'hotel 『執事室の追憶』 仏1919年出版より翻訳されたものでノンフィクション事実に基づいた記載である



『空の下、花と馬と』
――1908年 初夏、ロワール地方・郊外の草原にて

クレア・ルブランは五人兄妹の長女だった。
末の小さな妹を抱いて炊事を手伝いながら、兄の代わりに学び、妹たちの髪を編んでやる。父が亡くなったとき、まだ十四だった。だが、そのときから彼女は「家族を守る顔」を覚えた。

本を手にすれば静かに読んだが、野に咲く野草には名前をつけ、庭のバラの成長にはひときわ敏感だった。だが何より――彼女が心から安らげたのは、村の厩舎にいる栗毛の牝馬と過ごす時間だった。

馬の息づかい、揺れるたてがみ、地面を蹴る音。言葉よりも確かなものがそこにはあった。


---

屋敷で事務仕事を任されてからは、そうした自由な時間はめっきり減った。だが、ある晴れた午後、ジョージがふいに事務室の扉をノックした。

「クレア。――今日、時間が取れる。乗馬もたまにはいいだろう。街に一緒に行けないか」

驚きながらも、クレアの瞳には柔らかな光が灯る。
「……では、久しぶりに“あの仔”にも会わせてください」


---

小さな厩舎に繋がれた栗毛の牝馬“エメ”は、彼女の足音を聞くなり首を振って鳴いた。ジョージが選んだのは黒い牡馬“モリス”だった。

ふたりは並んで林を抜け、丘を越え、やがて――風の吹き抜ける平原に辿り着いた。そこには野花が咲き誇り、遠くで麦が揺れ、空はまるで水面のように澄んでいた。

「ここは……気持ちいい」

クレアが馬を降り、草にそっと腰を下ろす。ジョージも隣に座り、やがてふたりは並んで寝転がった。

雲がゆっくりと流れる。風が花を揺らす。馬たちが静かに草を噛む音。

「まるで、雲が地面でこちらが空に感じてしまう」とクレアがぽつりと呟いた。

「そうかもしれない」とジョージは目を細める。「この場所は、不思議な力がありそうだね」

クレアは微笑んだ。

「こんなゆっくりとした時間、子どもの時から無かった………」

沈黙。
けれど、それは重くない。風の中に溶けていくような、幸福な沈黙だった。

やがてジョージがそっと言う。

「クレア。君がこの屋敷で、どれだけ強くいてくれたか、誰よりも知ってるつもりだ。でも……もう少し、弱さを見せてもいい。馬に、花に、そして風にに」

クレアの目が揺れる。
そして、彼の手を静かに握り返した。

「……こういう時間がまた許されるなら私が“ひとり”に戻りそうな時、また、馬でここへ連れてきて貰ってもいいですか」

「勿論。何度でも、連れてくる。この雲にこの風に。忘れてしまわぬように」

空の広さに包まれながら、ふたりは唇を重ねた。草の香り、花の色、遠い空の青――
すべてが、その一瞬を祝福しているようだった。

栗毛の牝馬“エメ”のいななきで2人の唇はようやく離れた。

花と馬と、誓いの空の下で。