#この手記はReminiscences de l'office du maitre d'hotel 『執事室の追憶』 仏1919年出版より翻訳されたものでノンフィクション事実に基づいた記載である『 静かなる旅路』

――1909年 春。
フランス西部の屋敷を発ち、ジョージは、長旅に出た。
行き先はパリ、ロンドン、そしてベルギー・ブリュッセル。
領地を巡る資産の再編交渉や、旧貴族家との信託文書の確認、密やかな外交調整まで――
彼の肩にかかるものは重く、だが、彼の背筋はいつも変わらずまっすぐだった。

出立の朝、屋敷の書斎で彼はクレアに向き直った。

「執事室の管理と、文書類の確認を頼むよ。君の几帳面な目が、今は何より信用できる」
「わかりました、お気をつけて」とクレアは頷いたが、その声には微かに寂しさが混じっていた。

ジョージは言葉を選び、少しだけ微笑む。

クレアは、何も言わずに頷いた。


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パリ――ひとときの自由と記憶

春のパリは雨の匂いがした。
傘を差さず歩く英国風の癖を持つ彼は、石畳を踏みながら6区の小さな文具店に立ち寄る。
セーヌ沿いに近いその店では、古い紙や万年筆、書簡用の押し花つき便箋が並ぶ。

彼の目は自然と、クレアの好きそうな薄紅色の封筒と繊細な花押の便箋にとまった。
彼の脳裏には片時も愛おしいクレアの存在があった

「この紙は……野薔薇を漉き込んでいるのですか?」
「あら、なかなかお目が高い。季節ごとに一色だけつくるんです」と店主。

ジョージはひとつ頷き、包みを頼む。
まるで手に取った瞬間から、クレアの部屋にそっと置いてある風景が目に浮かんでいた。


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ロンドン――冷たい空と鋼の交渉

ロンドンでは伯爵家の顧問弁護士と長時間の会談が続いた。
冷たい紅茶と煙の中で、口数少なく正確な英語が交わされる。

全ての交渉が無事滞り無く終わって重いドアを閉じた瞬間に、彼の胸には常に静かな灯のように、クレアとの“あの午後”の記憶がある。
野花の香り、草原の風、そして、果てに感じた彼女の指の熱。
(会いたいな、会いたい………)

ふと通りすがりの書店で、クレアが昔読み耽っていた詩集『ヴェルレーヌ詩抄』の英仏対訳版を見つける。
「……これは、帰ったら渡そう、気に入ってもらえれば」

想いは、いつも贈り物に変わる。
それが彼の“恋”のかたちだった。
性癖だったのかもしれない。

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ブリュッセル――静かな夜の手紙

ベルギーの夜は、古い街灯が淡く灯る。
その灯りの下、宿に戻ったジョージは、クレア宛に手紙を書く。
言葉少なに、だが丁寧に。

> クレアへ――
屋敷の薔薇は今、どのくらい咲いているだろうか。
君の髪に触れる風の匂いを、こちらでも時おり思い出す。
すぐには帰れぬが、少しだけ――君の笑う声を、思い出してこの机に映してみた。



封筒にそっと野薔薇の押し花を添え、蝋で封をする。
ロウには、ウィンター家の古い家紋。

彼は…宿のベッドサイドの聖書の下に、見えるよう大事に封筒を置いた。