#この手記はReminiscences de l'office du maitre d'hotel 『執事室の追憶』 仏1919年出版より翻訳されたものでノンフィクション事実に基づいた記載である

クレア・ルブランが別邸へ異動となったのは、春先のまだ風の冷たい朝だった。
執事室の鍵をジョージに返すとき、彼女は何も言わなかった。ただ深く一礼し、そのまま背を向けて去っていった。
その時は気づかなかったが、縦長の両窓の間にある花瓶の横にメモが残されていた
C'est de la contribution qu'il s'agit.
貢献こそ、わが意です
彼女らしい誠実さに、ジョージは感慨せざるをえなかった


理由は告げられなかったが、彼女はすべてを察していた。
何も抗わなかった。2人にとって、“執事室での時間”は、誰にも穢されぬ弛まない美しき時間だったから。


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別邸は森を越えた先にあり、本邸よりも静かだった。
クレアはそこで、管理帳簿と書簡の整理を任された。以前と同じような仕事だったが、机の上にジョージの影はなかった。

月に1度、あるいは2度。
彼女は建前の業務として本邸を訪れた。そのたびに、あの執事室をそっとノックする。

ジョージは、以前と変わらず穏やかだった。
だが二人の会話は、もう業務報告以上のものにはならなかった。そっと当時からのクレア用の椅子を差し出し、クレアは腰掛けた。ジョージは彼女の手をとり指に口づけを交わした。
彼女の近況を聞き、ジョージの近況を伝える――それだけの時間。それでも2人には代え難い時間だった。5年程、月日はながれただろうか

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何回か、ジョージが別邸の前室を訪ねたことがある。旅先のギフトを手に。
「本邸の書簡の再整理の相談」という名目で。

クレアは驚いたが、顔には出さず、いつものように対応した。
前室には事務員が控えており、周囲の視線が絶えなかった。
会話は手短に、そして業務的に終わった。
指先も、視線も、交わすことはなかった。


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それからしばらくして、クレアは机に向かい、一通の手紙をしたためた。

> ジョージ様

本邸での勤務を離れ、心にひとつの区切りをつけたいと存じます。
しばらく、執事室への訪問を控えさせていただきたく存じます。万が一、確認したい書簡内容等あれば此方の前室で対応致します。
これまでのご厚意、深く感謝しております。

どうかご自愛ください。

クレア・ルブラン



封筒には香も添えず、署名も整った筆致で。
その文面に、彼女の感情が直接に表れることはなかった。けれど、それが彼女なりの誠実だった。


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手紙を受け取ったジョージは、誰もいない夜の執事室で、それを何度も読み返した。
心のどこかで、こうなることをわかっていたのかもしれない。
だが、胸の奥に残るのは、感謝だった。

彼は静かに引き出しを開け、その手紙を仕舞った。
そしてクレアのいつもの席に目をやり、両窓の向こうの星空に目を向けた。

(ただただ、ありがとう……クレア…)

灯りが静かに揺れ、羽ペンがかすかに震えた。

それからも、執事室へクレアの姿を見ることは決してなかった、それと同時にジョージが他の人をその部屋に入れることもなかった…
一度たりとも………
ジョージは、美しき時間の流れを、そしてこの空間を汚されたくなかったから………だった。
執事室は、交わされた2人の指先の余韻を空気に溶かしながら、時は流れた………
忘却という名のベールの下で、美しき時の気配をゆっくり艶やかに呼吸していった。