
今、クマ問題を解き明かす —自然と人間の境界が溶けるとき—
今年もまた、クマによる人的被害のニュースが全国を駆けめぐっている。東北を中心に、山間部から住宅地近くまで出没が相次ぎ、命を落とす痛ましい事件も起きている。
だが、私たちは冷静にこの「脅威」を見つめ直す必要がある。
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ヒトとクマはどちらが、ヒトにとって脅威なのであろうか。冷静に数字を紐解きたい。
クマによる死亡事件は今年およそ8件。対して、人が人を殺める殺人事件は年間約1000件、交通事故による死亡者はおよそ2600件にのぼる。数字だけを見れば、クマが直接人間の社会に及ぼす危険は限定的だ。
それでも私たちが「恐怖」を感じるのは、野生と人間の領域の境界が、静かに崩れ始めていることへの直感的な不安なのだろう。
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なぜクマは、森を出て人の暮らしの場にまで降りてくるようになったのか。
その背景には、地球温暖化による生態系の変化、過剰な森林伐採、ソーラー開発などの土地改変、そして人の生活圏の拡大がある。どれも人間が「より豊かに」と信じて行ってきた行為だ。結果として、クマたちはドングリや木の実を得にくくなり、飢えを凌ぐために人里へと足を踏み入れる。
つまり、クマが変わったのではない。環境を変えてきたのは、私たち人間の側なのである。
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かつてクマは、テディベアや『くまのプーさん』のように、愛らしさと優しさの象徴だった。大人気のパンダもクマ科だ。
人々はクマに「ぬくもり」や「無垢な自然」を投影し、友好的なイメージを育ててきた。
そして今、現代アートの世界でもクマは再び象徴として現れている。
彫刻家・三沢厚彦氏が手がける巨大なクマの木彫作品——全国の美術館や公園に設置されたその存在は、まるで人間社会を静かに見つめる“森の目”のようだ。
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三沢氏は語る。「かわいらしいクマの部分と、本能的な獰猛さを同時に表現したかった」と。
その言葉の裏には、自然を都合よく利用してきた現代社会への警鐘が響いている。
三沢のクマたちは、ただのアートではない。愛らしさの奥に、野生の尊厳と人間への問いかけが潜んでいる。
それは、私たちがいつの間にか忘れてしまった「共に生きる」という感覚を呼び覚ます存在でもあるのだ。
三沢厚彦の巨大クマアートが全国に立ち並んだ今、こうした事件が起きているのは偶然なのか。まるで予言アートではなかろうか。
クマは、自然の“鏡”である。
その瞳の奥に映っているのは、森の奥深くではなく、私たち自身の姿ではないだろうか。
クマを脅威として駆除するだけでなく、なぜ彼らが人の世界に来ざるを得なかったのか、その根を見つめることこそ、今問われている“共存そして共生”の第一歩である。

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