一流を集めても、なぜ満たされないのか
多くの一流建築家や一流スタイリストが口にしている「不足感」
実は前澤友作の新しい邸宅の話題を見て、ふと不思議な感覚を覚えたと多くの一流が口にしている。

そこにあるものは、どれも一流である。
京都の名人による作庭。
大理石一つからくり抜いたカウンター
城のような石組み
小さな額装のピカソ。
盆栽作家の小島鉄平による盆栽。
一流の鮨職人が立つカウンター。
巨大なワインセラー。
それぞれのパーツだけを見れば、どれも自宅という枠を超えている。
しかし全体として見たとき、なぜか心のどこかで「想像より小さい、想像より普通だ」と感じてしまう。
「あ〜こんなものか」
不思議なことだ。
鮨なら、もっと美しい鮨屋を知っている。
ワインセラーなら、パリの名店Le Tour d'Argentの地下の方が、もっと物語を感じる。
庭なら、心を奪われる庭は日本にも世界にいくらでもある。
つまり、それぞれの分野の最高の場所を知っている人ほど、こう感じてしまうのかもしれない。

「一流のパーツ」と「一流の空間」は別物だ。
本当に心を打つ場所には、必ず「理由」がある。
長い時間。
土地の記憶。
そこに流れた品位ある人の歴史。
レストランのワインセラーが美しいのは、
ただワインが並んでいるからではなく、
何十年もかけてその店の物語がそこに沈殿しているからだ。
庭が美しいのも、
石や苔が配置されているからではなく、
季節と年月がそこに呼吸しているからだ。
それらは「作る」ことはできても、
「育つ」には時間が必要なのだ。

豪邸は一瞬で完成する。
しかし、本当に美しい場所は、完成した瞬間にはまだ未完成なのかもしれない。
だから、もし十年後にその家を見たら、
前澤友作氏が天に召されて100年後には
印象は全く違うのではないかと思う。
盆栽は歳月をまとい、
庭は苔むし、
鮨カウンターには人の記憶が染み込む。
その時、はじめて
「一流のパーツの集合」は
ひとつの世界になる。
もしかすると本当の贅沢とは、
一流を買うことではなく、
品位ある人との時間を味方につけることなのかもしれない